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INTERVIEW

月刊食堂1990年8月号「たべものやの証人たち」より

けちん坊がやるとケチな味になっちゃう

加藤定巳氏(おでん 丸太ごうし 主人)
 
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 浅草のおでん屋の老舗「丸太ごうし」の創業は大正一五年。静岡県の生家が大正の恐慌で倒産の憂き目に遭い、伝手を頼って上京。当時一七歳だった加藤氏がおでん屋で見習い、開業したのが始まりである。当初は父親が店主だったので二代目ということになるが、実際には加藤氏一代で築き上げた暖簾の名声といっていいだろう。
 おでんの歴史は関東と関西とが錯綜していて、東京でも両者の系統が混在するが、「丸太ごうし」は「おでんは東京ので、システムは大阪のやり方」と加藤氏。そのシステムというのは檜の一枚板のカウンターで簡便に飲食させることで、バーはともかく座敷、小上がり全盛の当時、大変珍しがられたものという。といっても、格別に店の造作に凝るわけでもない。あくまで庶民の味を当たり前に商うという姿勢を貫いてきた。そこにこの店の魅力の強固さがある。

三ヶ月の見習いのあと、店を開いたのが一七歳のとき

 うちは六五年も浅草で店をやってるから、てっきり江戸っ子だと思われてるんだけど、実はそうじゃないんです。私が生まれ育ったのは、静岡県の富士市。おじいさんの代から銀行をやってたんです。ところが大正一〇年の経済パニックでね、そんな小さな地方銀行なんてあっという間に潰れちゃった。うちだけじゃない。日本中どこでもいっせいに潰れましたよ。それで当時、うちはひいおばあさんもいて十一人家族。どうして食っていったらいいかとなったわけ。で、東京へ出たらどうか、東京も浅草がいちばん繁華しているから、浅草へ出て食べ物屋をやれば、十一人いようが食っていけるだろう、と。私は七人きょうだいの長男でしたから、中学を退学して出て来たわけです。
 でも、経験も何もないんだから、食べ物屋ったっていきなりできっこない。ちょうど親父の友達がいまの御徒町で「丸太ごうし総本店」って看板でおでん屋をやってましてね。そこに見習いに入った。大正一五年の正月から見習いやって、三月にここで店を始めたんです。この「丸太ごうし」って名前はね、もともとは大阪の住吉神社の前にあった飲食店の屋号なんだね。何でも太閣秀吉が寄ったこともあるとかいうほど古い店だそうですよ。その屋号を親父の友達が使わせてもらって、それをまた私が暖簾分けしてもらって、私が始めて半年ばかり後から、親類でやっぱり失業していたのが日本橋室町に店を出して、都合三軒やってたんです。もっとも、本店も日本橋も戦災で終わっちゃって、戦後は私のところだけ残った。
 まあ、そんな経緯です。で、私は当時まだ一七歳、小僧ですわね。だから、親父が店主でその監督で始めたようなものだけど、親父はおでんなんか作れない。仕事は私の方が専門家。ただ、おでんの他にいろいろと気の利いたつまみ物を出すのに、さすがに親父は口が奢ってましたからね。でも、仕事はほとんどやらなかったね。
 私が始めた大正の終わりから昭和のはじめは、おでん屋がぼつぼつ増えてきた時代でね、それで私もとっついたわけだけど、まだみんなちっぽけな店だったな。雷門のあたりにも三〇軒くらい屋台が出ていたけど、おでん屋は二軒くらいかな。まあ、あとは床店とかね。ちゃんと店を持ってというのはまだ少なかったですね。
 それで、昭和のはじめはちょうど不況の時分でしょ。それがかえってよかったんだな。安く簡単に飲めるってことがね。この辺は靴の職人さんの土地柄だ。それと草履屋さん、下駄屋さん、鼻緒屋さんね。一日に何足作るのか知らないけど、昼間稼いだのが生活費で、夜なべに働いたのが飲み代。そんなことをいってたな。それから、関東大震災で焼けたものだから、その復興に全国から大工さん、左官さんが東京に集まって来ていて、浅草あたりにたくさん泊まってた。そういう職人さんは、今日稼いだ分は今日使っちゃうんですから。あとはタクシーの運転手さんね。ガレージが近所に四軒あって、夜中の二時頃、車を置いて来て、残ったものをみんな食べてくれましたよ。
 とにかく震災直後でゴチャゴチャしていた時分だからね。朝飯食ったらもう暖簾を出してました。お客はぼつばつ来る日もあれば全然来ない日もある。それでも暖簾は出してたな。おでんはやりませんよ、おでんは夕方から。なまこだとか酢だこだとか、他のつまみがあるからね。それと、昼間は酒屋もやったんです。なに、あの時分は許可なんていらないんです。貧乏徳利の一升売りで、お得意さん相手にやってました。

※「おでん」というのは煮込み田楽の略称で、古くは田楽の女房ことばである。その味噌を塗った豆腐田楽が江戸時代後期、江戸でしょうゆ味の煮込み料理に発展し、煮込みおでんと呼ばれて人気を博した。明治以後、庶民の味としてますますもてはやされ、それが関西に伝わって「関東炊き」となる。そしてさらにそれが関東に逆輸入された。おでんの歴史を辿るとざっとこういう経緯になるが、加藤氏が「丸太ごうし」を始めた大正末期はちょうど、江戸=東京で改良・発展していたところに関西での流れが合流した頃、つまり、東京でのおでんの本格的な成熟期の端緒にかかる。たんに東京で指折りの老舗、ということだけでなく、そういうおでんの歴史、さらに浅草という土地に根を下ろして築き上げた名声という点でも、同店の暖簾は貴重な存在となっている。

うちの店は味は関東風、システムは関西流

 だしの取り方は、本節と昆布でね。これはずっと同じ。ただね、かつ節をケチケチしたところのおでんのおつゆと、ドサッと入れてるのとでは、ぐっと味の違いがあるわけ。だから、けちん坊がやるとケチな味になっちゃうわけだ。昆布だってそう。だしを取ったらそれを切って結んで、種にするんだから、やっぱりいい昆布をちゃんと使わないとね。いまうちは女房と息子夫婦でやってるけど、昔も家族でやってたからね。それで、昔はかつ節を削るのがおばあさんの仕事だったんだね。もっともいまは、そんなふうに削るのは大変だし手もないから、かつ節屋で削ってもらってますけどね。煮汁の味は秘伝なのかって? どの家でもやり方は同じなわけなんだろうけど、やっばり違うね。まあ、おでんってのは、種がたくさん入るほどおいしいってことはいえるね。それと、煮えすぎはよくないよ。だから、お客のよく入っている店のおでんはおいしいのさ。
 しょうゆはふつうの濃口しょうゆですよ。ただ、煮汁の扱いは大変。まず、煮てるときにどんどん減ってくから、追い汁するでしょ。リットルにすると、ひと晩に一〇リットルくらいは使うんじゃないかな。それで濃すぎず、薄すぎず、これがコツなんですけどね。で、店が終わったら残りの煮汁をこして、また煮立てておく。冬はいいけど、夏は傷みやすいから気をつけないとね。夏は火入れは二回、寝がけにやって、それから起きてすぐまたやる。もっともいまは冷蔵庫ってのがあるけど、昔は氷の冷蔵庫だからね。おつゆなんか入れられない。
 種の種類はね、こないだも勘定してみたんだけど、昔は大してなかった。十二種類くらいのものでしたね。豆腐屋のものが、こんにゃく、がんもどき、焼き豆腐、ちくわ麩と、しらたきなんかは入れなかったな。それから、かまぼこ屋のものが、はんぺん、すじ(ゆでかまぼこ)、つみれ、さつま揚げ、信太巻き、それとちくわだ。土日は本ちくわと焼きちくわとあったんだけど、やっぱりおでんには焼きちくわが向いてましたね。袋だとかキャベツ巻きなんてのは、昭和一〇年頃からだったかな。まあ戦前はそんなものでね、種類がドッと増えたのは昭和も四〇年代に入ってからあたりじゃなかったかな。そのせいでこっちも忙しくなってきたってこともありましたよ。
 うちのおでんは東京のおでんだけど、システムは関西なんだね。最初っから檜の一枚板のカウンターでやったんだけど、これは大阪のやり方だったんだね。本店が関西の人でしたから。あの当時の飲み屋は、神谷バーみたいな○○バーというのが多くて、さもなきゃ、座敷や小上がりに上がって、おねえさんがお酌をする。それというのも、その頃は銀座の方へ行けば別だけど、このへんは着物のお客さんばっかり。そうすると、履き物を脱いで上がる方がいいわけだ。だから当初は珍しがられてね。造作してたら近所の人たちがカウンターを見て「郵便局ができるのかな」なんてね。カウンター式のはしりだね。そのうちに洋服の人が多くなって、カウンターの方が簡便でいいやってことになってきた。
 うちはお酒をお爛するのにスズのチロリを使ってるけど、これも関西のやり方。昔は三杯で一合というコップに注いで、一杯六銭、一合八銭、いい酒だと二七銭。これは大阪流なんです。角の仕切りの付いてる鍋も、関西流だね。東京の鍋はただの丸いやつ。よく屋台なんかで見かけるでしょう。戦前の鍋は赤。銅だから磨くのが大変だったけど、戦後はステンレスになって便利になりましたよ。戦前のおでんの値段はね、焼き豆腐、こんにゃくあたりが三銭。で、五銭があって、はんぺん、すじが一〇銭でいちばん高かった。お酒を二合飲んでおでんを食べて、そうねえ、一人七〇銭ってとこでしたかね。

おでん屋は簡便に飲み合いできて、しかも安くてうまいところなんだ

※「丸太ごうし」の開業は、関東大震災の罹災からわずか二年半後。店の前の通称馬道通りもまだ拡幅前の三間道路で、ちっぽけな平屋バラック建てが並んでいた時代である。同様にバラックで開業。翌年の昭和二年に三階建ての本建築にしたときは、一階一五坪といっても大きい規模の方だったという。浅草は戦災で再び焼け野原となったが「丸太ごうし」は昭和二一年夏に早くも復興。四三年に現在の二階建て店舗になっている。

 戦争でここらはガラガラの焼け跡。私は軍隊に取られてたけど、真っ先に帰ってきた方でね。疎開してた静岡の親戚のところから一五坪のバラックを解体して運んできて建てたのが二一年の八月で、この通りで復興したのは、うちが二番目だったかな。でも、もちろんおでん屋なんかできるわけがない。静岡からお茶を仕入れて、それは表向き。夜は座敷でね。まあヤミ屋の仲介所みたいなもんでしたよ。なんとかかまぼこ屋が復活して、おでん屋らしい営業ができるようになったのは、二五年頃からでしたね。それまでは配給、統制経済だ。
 戦後は辛かったですね。この商売始めたときも借金だったけど、これは三年で返した。でも、戦後の借金が終わったのが昭和三五年だったかな。いちばん痛かったのが土地の借金でね。地主が強制的に買えというんだ。一〇〇坪に七軒建ってたのが集まって、でも誰も現金でなんて買えない。みんな借金。お互いに判コを押し合ってね。だけど、それで三〇坪になったんだし、結果的にはよかったんでしょうけどね。それにしても大変でした。まだ外で飲食する余裕のある人が少ない時代でしたからね。経費の割に売上げが上がらないわけです。
 種にニックネームを付けたのも、あの頃だったなあ。「丸太会」っていううちのお馴染みさんの会があって、会長は作家の玉川一郎先生。で、先生の発案で、お客さんから募集してね。あの人はユーモア作家だから、そうしたことはお得意だ。で、落語家の円歌さんとかも審査委員になってさ、これはいいや、こんなの食えるかってやりましたよ。当たった人は酒一升という懸賞だ。
 まあとにかく、おでん屋ってのは簡便に飲み食いさせて、しかも安くてうまい。そういう庶民的なところがいいわけだ。だけどねえ、最近の若い人はおでん種の名前を知らなくなっちゃったね。知らないものだから、指さしてこれとこれ、なんていう。やっぱりしっかりと教えてあげたいですねえ。