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INTERVIEW

月刊食堂 1989年3月号「たべものやの証人たち」

自分の店の売り物に自信をもつことが大事

堀田鶴雄氏氏(池の端藪蕎麦 主人)
 
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 昭和二九年、浅草・並木藪蕎麦から分家して池の端に開業。かんだやぶそば、並木藪蕎麦とともに“藪御三家”と称され、江戸前そばのよさを現代に具現する名店に育てあげた。戦前までの、そば店の本来の仕事を熟知し、戦後間もなく、他店に先駆けて戦地で焼失した並木の店を復興。さらに、独立して自店の暖簾を築きあげてきた堀田氏の半生はそのまま、東京のそば店の変遷と世相との関わりの貴重な証言となっているといえよう。
 また、そば料理を考案した父・故勝三氏(並木蕎麦初代)の趣味そばの心意気をも継承。そば料理や創作そばの工夫にも大きな功績を残してきた一方、店の法人化や午後のクローズタイムの導入など、そば店の経営の近代化、合理化にも先鞭をつけたという点でも高く評価されよう。五年前(1984年頃)、長男・勝之氏に代替りをして第一線を退いたが、そば業界の御意見番としての存在はいささかも変わらない。

量が少ない、汁が辛い、そういう評判もあったんです

 私がそば屋を始めたのは、戦後からなんです。終戦の翌年でした。焼け野原になっちゃった並木の地所に三坪ばかりの掘っ立て小屋を建てましてね。それで屋根裏に畳一枚敷いて。板を張っただけですから、夜になると節穴から星やお月さんが見せる。そんなところに梯子を掛けて泊まりながら、昼間だけでもりそばを売ったんです。薪でそばをゆでて、薬味なんかなしでもり汁だけ。汁はかぶと鉢に入れて出して置いて、好きなだけ猪口に入れて食べてくれ、ということで。なにしろ一人でやってるんだから、手が回らない。お天気の日だけ営業して、雨が降ると休みにしちゃいました。梯子をおろしたり、薪を表へ出したりすることができないわけですよ。たしかもりそば一杯、三〇銭くらいで売ってましたね。
 そばはね、幸い木鉢と手回しの製麺機が焼けないで残っていましたから、まあ、一応は打てました。そば粉だけで、つなぎは卵。ただ、そば粉は当時、統制品でしたから、思うように手に入りません。それで、粉がなくなると水戸あたりまで、リュックサックを背負って買い出しに行ったものです。
 ところがそのうち統制が厳しくなりました、粉の質もめちゃくちゃ。で、そんなまずいもの売れるかって、二、三年でやめちゃいまして、しばらく食券と交換で配給になるうどんを作ってました。一日二〇〇〇食くらいこしらえていましたか。それから、ある程度は自由に営業できるようになって、それでまたそば屋を始めたんです。あれは二五、六年頃だったと思います。
 その後、並木で三、四年、親父と一緒にやって、二九年六月にここ池の端でオープンしたというわけです。この場所にしたのは、たまたま女房の持ち家だったものですから。しもたやを商売家に直して始めたんです。私がこちらに移って、並木の方には兄が入って、親父が死んだのが三一年です。

※“藪御三家”のひとつとして知られる池の端藪蕎麦の初代・堀田氏は、大正一二年生まれ。大正二年創業の名店・並木藪蕎麦の三男として生まれた。並木の堀田平七郎氏が長兄であり、並木とともに江戸前そばの奥義をいまに伝えている。

 こっちで商売を始めたといっても、汁にしてもそば味噌にしても、並木でやっていたのと全く変わりません。だけども、そのことではあの当時、女房とずいぶんともめたものです。それこそ借金して店を持ったんだから、売上げは一〇円でも二〇円でも欲しいときです。で、女房が銭湯へ行きますと、おたくのそばは量が少ない、もう少し量を多くできないのか、とか、汁が辛い、もっと甘くしたらどうか、とか近所のおかみさん方からいわれて帰ってくる。それで私を責めるわけですよ。でも、おれは絶対に変えないぞ、と。量が少ないのならふたつ食えばいいじゃないか。そんなんで強引に頑張り通しちゃったんですけれどもね。
 並木では昔から、そばの量は少なかった。昭和一〇年頃で、たしかもりそばが一〇銭。一般のそば屋が一五、六銭くらいの時代ですね。だけど量にすれば三〇銭分くらいの値段を取っていたことになります。いわゆる趣味そばです。親父は昭和の初め頃にすでに、そば屋の上・中・下と三つあれば、中がなくなって趣味のそば屋と大衆食堂に分かれるんじゃないか、と書いてましたが。
 うちではいまでも、昔のままの量ですから、一人前で一二〇から一三〇グラムくらい。だから、ひとり二枚、三枚と食べるのがふつうです。汁も辛い昔の味のまま。しかし、開業当時、量が少なすぎる、汁が辛すぎるという評判が出たからといってそこで妥協していたら、いまの池の端藪蕎麦はなかったんじゃないかと思うんです。
 私はそば屋修業というのはとくにしていないんですが、子供の頃から仕事場に入るのが好きでしてね。店の者にくっついていて、そばを練るのを見てたり、延すのを手伝ったりしながら親父が店の者にいろいろ注意するのを聞いて。だから、どちらかというと門前の小僧という感じですね。製麺機を回していたりすると、危ないからやめろって親父が怒鳴るけど、その目をかすめてね。そば打ちをやっていたのは、小学校の四、五年生くらいのときでしたね。
 それから、中学三年の頃、学校から帰ると毎日、店で使う天ぷらを揚げてました。もっともこれは、ちゃんと親父に断ってお金ももらうアルバイトです。一個当たり一銭の勘定で、二〇〇個くらいは揚げてました。戦前は並木は伊勢丹に支店を出してたんですが、厨房がせまく揚げる場所も時間もない。それで、その店の分もいっしょに並木の店で揚げていたわけです。そば屋のかき揚げは直径が八、九センチくらいの大きさで、天ぷら屋さんのと比べると小ぶりでした。たねは小柱と芝えび。小柱が入った方がだしが出て衣自体がうまくなるんですけど、小柱が飛び出さないように揚げるのがむずかしい。学校へ行くと、天ぷら臭いっていわれました。
 余談ですけどね、戦前のそば屋のかみさんの小遣いというのは、醤油の空き樽とか、鰹節のだしがらを干したのとか、そば粉やうどん粉の入ってた木綿の粉袋とか、そういうのを売って稼ぐ。それがそば屋の風習でした。だから、売れてる店ならそれだけ余計にかみさんに小遣いも入ってくるわけです。

戦前は当たり前だったつまみの技術も消えちゃいました

 品書きは戦前も、もり、かけ、おかめ、天ぷら、そのへんが主流でした。天ぷらはいまみたいな大きいえびを棒みたいに揚げるんじゃなくて、芝えびのつまみ(揚げ)というのが当たり前だったんです。えびの尻尾を指で挟んで、三本、四本と等間隔でしかも四角い形に揚げるもので、六本づまみまでありました。かつては天ぷらは揚げ置きですから、当然冷たくなっちゃってる。それを、煮立った汁の中に入れて温めて出す。これが天ぷらそばというもので、天ざるは戦後のものです。つまみ揚げは、戦前はそば屋として当たり前の技術だったんですけど。戦後はなくなっちゃいましたねえ。ただし、並木と神田はちょっと違って、かき揚げでもって売っていた。それから、昔は天南という品書きがあって、天ぷらそばならつまみが二つのところ、天ぷらはひとつでその分ねぎが入っている。天ぷらそばが二五銭くらいなら天南は一七、八銭でしたか。
 そば粉ですが、戦前でもいわゆる国内産だけじゃ足りなくて、満州ものが入っていたんです。その頃の品質までは知りませんけど。いまは国内では、水田をつぶしてそばを作っていますね。正直いって、地味が肥えすぎちゃってて、うまくないんです。それでいて値だけはすごく高い。だから私は国内産なんて指定はしません。産地ではなくて品質です。お客様がうまかったとお勘定を払って下さる粉を持ってきてくれと。粉屋さんにはそういっているんです。いくら国内産だからといって、何万もする高い粉を使って、それだけではたしてお客が満足するかどうか、私は疑問だと思いますね。ちょっと小腹がすいたから食べようとか、そういう気軽な食べものというのが、本来そばだと思うんです。
 醤油もずいぶん変わりましたね。塩分をどんどん減らして、うまみの成分を増やしてますから。それに気がつかないで、昔からの分量どおりで汁を作るものだから、だんだん薄い汁になってきちゃった。やっぱり、自分の舌で常に調節していないと、おかしなものになっちゃいますよ。鰹節、砂糖、味醂だって変っているけども、とくにひどいのが醤油。うちは生がえしなんですけど、昔みたいに二週間くらい寝かせて角を取る、なんて意味がない。防腐剤が入っていますから、熟成しないんですね。

そばの間を蠅がくぐれるくらいに盛らないといけません

 昭和二九年に店を開けた頃は、五〇代、六〇代の男の客がほとんどでしたから、一五年かそこいら経ったらお客がいなくなっちゃうんじゃないか、なんて心配もしましたけど、ここ数年は若い人たち、それも女性が増えてきていますね。ただ、最近のお客は総体的に食べ方が下手ですね。昔から“そばとせんべいは音を出して食え”っていわれているように、二、三本ずつすーっと勢いよくすすり込むっていうのじゃないと、どうもね。
 だけれども、そば屋の方も悪い。本来、蒸籠には、小さい山で六つ置いて、それだけじゃみっともないから真ん中にふた山置いて、菜箸でならすのが、そばの盛り方。そばの間を蠅がくぐれる盛らないといけません。こうすると水切れもいいし食べやすいし、ふわっとしているから、一〇枚分で一二枚くらい取れちゃうんです。それが、戦後すぐ、そばが代用食みたいになって忙しい時期に、片手で全部をボンと落として上だけならす、片手盛りの悪い癖がついちゃったんですね。これじゃお客の方も食べにくいから、食べ方も上達しません。
 そば屋が苦しい、といわれていますね。私はいまのそば屋は、自分の売り物に対して真剣味がなさすぎるのじゃないかと思うんです。おれのところはうまいんだ、という自信がない。それでご飯もの、中華までやって結局、手が回り切れない。悪循環を繰り返しているんじゃないでしょうか。まあ、ある程度は、時代の、お客のニーズにも合わせなきゃいけない部分はあるとは思います。
 それでも、たとえば戦前の並木で天ぷらそばを三〇銭で売っていたとき、一円くらいの丼を使っていましたよ。そういうところにカネをかける心意気がほしいものです。