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INTERVIEW

月刊専門料理別冊「現代フランス料理4」より

その素材が本来もつ味を食べてもらう

ベルナール・ロワゾー氏(ラ・コート・ドール シェフ)
 
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 ブルゴーニュ地方にあるソーリューという町の名は、戦前から戦後にかけてアレクサンドル・デュメーヌという優れた料理人によって、その名をフランス中に轟かせていた。デュメーヌは、改めて言うまでもなく、フェルナン・ポワン、そしてアンドレ・ピックと並んで、その才能の素晴らしさを高く評価された料理人である。彼が経営していたレストラン「コート・ドール」には世界中からグルメたちがやって来て、その味をほめたものである。
 その「コート・ドール」も、デュメーヌ亡き後はすっかり活気を失ってしまった。デュメーヌがあまりにも個性的で、しかも天才的な料理人であっただけに、その後を継いだフランソワ・ミノは残念ながらその盛名の重荷に耐えられなかったのである。かつて名声をほしいままにした「コート・ドール」も色褪せてしまったかにみえた。
 その「コート・ドール(現、ルレ・ベルナール・ロワゾー)」に新しい息吹を吹き込んだのが若きベルナール・ロワゾーである。一九七五年にやって来たロワゾーは、その若さとセンスで、七十七年には一ツ星を取り、八十一年には二ツ星を取って、この古きホテルに再び活気と話題をよみがえらせることに成功した。
 ベルナール・ロワゾーは、一九六八年に「トロワグロ」にアプランティ(見習い)として入ったのが料理人としての出発である。ここで三年間の修業の後、兵役を経てパリに行き、「バリエール・ドゥ・クリシー」に入る。ここでパトロンであるクロード・ヴェルジェと出会ったことが、ロワゾーの人生を大きく方向づけることになった、といっていいだろう。ちなみにこのクロード・ヴェルジェは「バリエール・ドゥ・クリシー」の他に「ビストロ・ドゥ・リヨン」「バリエール・ポクラン」「コート・ドール」「バリエール・ドゥ・シャン」を持っている。そのうちソーリューの「コート・ドール」は八十二年に愛弟子のロワゾーに売り渡している。
「ヴェルジュ氏と一緒に七十五年にここソーリューにやって来ました。このホテルはとても古くガタがきていましたので、少しずつ修理をしてきたんです。調理場なんかも随分古くさくて、新しく機械を入れたりしながら改造はしているんですが、まだまだ設備としては欠点だらけです。
 それでも、とにかくデュメーヌの名声あるこの店を自分の力でよみがえらせようとがんばって八十一年に二ツ星までこぎつけました。そして八十二年にヴェルジュ氏が私にこの店を譲ってくれたのです。現在私がある程度世間で認められるようになったとするなら、それはヴェルジュ氏のおかげだと思っています」
 伝統的なフランス料理にのっとった料理を作っていたデュメーヌの店をよみがえらせるのに、若きロワゾーはどのような方法論で立ち向かっていったのだろうか。そう思いながら(記者が)調理場に入ると、ある大きな特徴にすぐ気付くとことになる。それは調理場のピアノ(オーブン)の上にフォン類がまったくない、ということだ。
「私は何の用意もしないんです。何もしない。たとえば昼は十二時からサービスが始まるんですが、その時にはピアノの上には何ものっていません。そしてメートル・ドテルが持って来る注文によって我々は働き始めるのです。なぜフォンがないかって? すべて、それぞれの材料から出る煮汁(jus)をベースとしますから、前もって準備することは何もない。だって材料を、客が来る前から煮たり焼いたりするわけにはいかないのは当然でしょう? たとえば最初のテーブルの注文が鳩で、別のテーブルもまた鳩だったとしましょうか。その場合でも一つの皿の鳩は、その鴨の汁で調理されているのです。それぞれの客が、自分が食べる鳩の汁で作られた料理を食べることになるわけですね。これは私にとって、ヌーヴェル・キュイジーヌの新しいフォームといいっていいでしょう。現在ひとつの大きな変換がフランス料理界におこっているのです(1983年に取材)。
 ひと昔前にデュメーヌ、そしてフェルナン・ポワンなどの時代があり、そのあとボキューズ、トロワグロ、シャペルなどによる大いなる変革の時代があった。そしてその後、またちょっと違った新しい形のフランス料理が、ミッシェル・ゲラールやジャック・マニエールなどによってなされてきました。でもこれらの人たちの料理にはいつもソースがありました。
 現在、またひとつの新しい料理人たちの時代がやってきています。その時代を作っているのは、私たちです。私たちは、ソースをあらかじめ用意することをやめ、材料の汁(jus)を最大限に利用します。そしてデグラッセは水やブドウ酒酢などで行ない、野菜のピュレでリエゾンするなど、今までとはまったく違った新しいスタイルの料理なのです。従来はどこへ行ってもバターでモンテし、クリームを加えるといった方法です。でも私はその方法は使いません。
 私が何故、水を大切にするかといえば、水は無色・無臭だからなのです。これで材料の汁をデグラッセすることこそが、その材料の特徴を最も大切にすることだと思うからなのです。たとえばエクルヴィスの例をとりましょう。まずエクルヴィスは鍋でソテーします。そして頭部や脚、ツメなどの殻をブツ切りにしてオリーブ油で強火でルヴニールし、そこに水を注ぎ入れるのです。殻と同じぐらいの量の水です。そして二十分くらい煮出してから殻を叩きつぶし、シノワでこします。これがすべてのベースになります。私の料理は、このアンフュージョン(infusion)の料理なのです。だって、この煮出したアンフュージョンにその材料の味も香りも最も強く表現されているからです。エクルヴィスをソテーした後の鍋は、このアンフュージョンでデグラッセするのです。これがソースです。
 鳩のロティでも同じです。鳩のカルカスを同様に煮出すのです。ただ注意しなくちゃいけないのは、この時使う鳩は、窒息死(étouffer)させたものじゃないとダメだということです。窒息死させた鳩は血が体の中に残っていますからロティした後、この血に少しのレモン汁を加えたりしてリエするのです。汁はもちろん鳩のカルカスを水で煮出したもので作ります。旨味を出すためにフォンを取るなどということは必要ないのです。すべて自然の方法を使うのですよ」
 このように、素材そのものの味で勝負する調理法は、当然その材料の鮮度が最も重要になってくる。
「そう、私が作っている料理にとって材料の鮮度はとても大切です。いつも最高に新鮮で良質のものを選ばなくてはなりません。材料以外のものを混ぜていないので鮮度をごまかすことができないからです。私にとってクリームを使ってソースを仕上げるなどという方法は安易だと思います。それは、魚を煮て、塩、コショウ、レモン汁、そしてクリームで仕上げれば美味しいですよ。でも何かが欠けているのですよ。私にとっては一番むずかしい大変なこと、しかも、のがれられない本質的なことから逃げているんですね。私の方法には、その材料の香りがあり、そのもの本来の味があります。これが本当の料理なんです。
 サーモンの料理を食べてみると舌ビラメの味がするなんてゼロです! そうでしょう? 鳩を食べてみたら何となく鳩の味が混ざっているなんて、許せますか? 本当の料理とは、その材料が本来持っている味を食べてもらうことにあるのです。鳩は鳩の味を食べ、鳩は鳩の味を楽しまなくてはなりません」

素材を生かすことに徹したロワゾーの料理法

「ここのところボキューズやゲラールまでヌーヴェル・キュイジーヌを批判し始めています。これからはブフ・ブルギニョンやオムレツなどの時代だと言っているんです。いいですか、よく聞いて下さいよ、これは大切なことなんだから。要するに彼らは、我々若い世代に先を越されてしまったんです。現在、若い世代の中で新しい料理の世界をリードする料理人たち、たとえば私やジャック・マクシマン、ギー・サヴォワなどは、料理に関してはボキューズやゲラールといった、私たちにとっては古いこれらの人たちよりも、はるかに上手に、いい料理を作っているのです。彼らこの一世代前の達人たちは、自分たちを守るため、面子を守るために、昔に戻り、原点に返り、郷土料理に戻れ! なんてことを叫んでいるのです。
 そんなこと言ったって、じゃあ彼らのレストランで食事したって郷土料理なんて出てこないでしょう。オマールやサーモン、カキは出てきてもカッスーレなんか出てこないでしょう! バカげてますよ。新聞や雑誌で、彼らは大声をあげて行き過ぎたヌーヴェル・キュイジーヌの代わりに、これからは地元の産物を生かした郷土料理なんて言ってるけど、誰がボキューズの店でオムレツを食べましたか?
 やってもいないことを言うなんて、いい加減ですよ」
 新しい調理法の良さを主張し、我らの時代を宣言するベルナール・ロワゾー。素材を生かすことに徹した彼の調理法の延長線上に、どのような未来像が広がっているのだろうか。
 たとえば料理の創造性ということを考えた場合、過度に素材に依存する彼の料理の行きつくところは、できるだけ手を加えない料理になり、料理のイマジネーションが表現された料理からはもっとも遠いところに行ってしまうのだろうか。
「最高のものを創ったら、それ以上は変化できない、と思います。ひとりの人間が大きな変化を次から次へとやっていくというのは、とてもむずかしいことじゃないですか。
 人が何かひとつのものを創ると、それがひとつの派になりますね。一派を築いた後は、それをずっと続けていくのです。それ以上のものはなかなか考え出せません。それに、そうした人の創ったものをベースにして、若い人が次に新しいものを生み出していけばいいのです。
 私はここでひとつのスタイルを創りましたので、これからはずっと続いていくでしょう。もちろん新しい素材で新しい料理は作っていきますよ。でもそれは、先ほどから話してきた“水でデグラッセする”というスタイルにもとずいたもので、この根本は変わりませんよ。
 私が現在、八十三年に作っている料理は自分としては最高の料理です。もうこれ以上は何もできません。いつも同じ良い状態に保つことはできても、それ以上のことはできません。
すべてか自然から作り出す料理なのですから。自然に何か他のものを加えるわけにはいきません。自然というのは、自然のままの姿なのですから」
 フランスの美食評論家が彼の料理を定義するとしたら何とするだろうか、との質問に、
「ベルナール・ロワゾーの料理ですよ」と即座に答えが返ってきた。