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INTERVIEW

月刊食堂 1989年8月号「たべものやの証人たち」より

洋食は和洋折衷のむずかしさがおもしろい

茂出木雅章氏(たいめいけん 主人)
 
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 創業は昭和六年。花柳界・新川の小体な洋食屋として頭角を現わした。二十三年に日本橋に移転。以後、名実共に東京を代表する洋食屋として高い評価を受けている。茂出木氏が「生涯現役」を貫いた初代・心護氏の跡を継いだのは昭和五十三年。洋食屋ならではの「昔の味」を守り続ける一方、新しい素材、調理法の工夫、開発にも積極的に取り組み、多様化を深める時代の潮流に応え得る洋食屋の在り方を模索している、という。揚げ物、ソテー、ライスものなど、昔ながらの定番品はそれとして、グレージング志向を先取りした小皿料理あり、ラーメンありと、新旧のよさが絶妙に融和されたメニュー構成は「たいめいけん」の独壇場である。洋食の「洋」はたんに西洋にあらず、広く外国料理、とする解釈は、初代が修業した明治の名店のものであり、また今日、茂出木氏の信念でもある。二代にわたって洋食の認知・普及に努めている姿勢は清々しい。

※現在は、三代目となる茂出木浩司氏も活躍中。

あの頃の洋食屋は、今のフランス料理屋よりもモダンで誇りもあった

 親父さんが独立して新川に店を持ったのが、昭和六年。でも、それからすぐに戦争状態に入って、材料がなくなっちゃったりと、戦前は結構大変だったんじゃないかな。当時は店といっても、カウンターに六、七人座ればいっぱい、という程度。新川というのは花柳界でね。家は店のすぐ裏にあったから子供心にも三味線の音が聞こえてきたのを覚えてますよ。なぜか昔は、花街の近くに洋食屋があったんですね。で、お客は芸者衆とか、遊びに来た人たちです。そんな関係で、いろいろないいお客さんをつかめたんじゃないでしょうか。それからその当時は、かなり遠くまで出前を持って行ってたみたいです。出前が大事な仕事だったわけです。
 僕は昭和十四年生まれですから、はっきりと記憶しいているのは、やっぱり戦後のことになります。二十三年に新川から日本橋に移って再開したんですけど、その頃はこの辺り一帯焼け野原、富士山がよく見えるんで、親父さん、店名も富士見軒にしようか、なんていってたくらいでした。実際には“泰明軒”から、平仮名で“たいめいけん”に変えたんですが。
 僕が正式に店で働くようになったのは、大学卒業と同時の三十六年からです。でも、家業でしょ。小学生の頃から盛り付けを手伝ったり、出前に行ったりしてましたからね。自然と身に着いちゃうところがあるんです。いまうちで修業させている子たちでもね、それはある。食い物屋の倅は覚えがいいんです。
 僕自身の修業は何というか、要するに手の足りないところに回された、という感じなんです。昨日はコックやって今日はボーイ、とね。もっとも、親父さんは昔からサービス精神が旺盛で、よくお客の前に出てサービスしてました。だから、席への案内のし方とか、お客様へのコートに着せ方とか、料理だけじゃなくそういうことまで教え込まれましたよ。
 
※「たいめいけん」の屋号は、昭和五十二年に逝去した初代が、明治の洋食屋の名店「泰明軒本店」で修業、暖簾分けをしてもらったことに始まる。

 洋食とは何なのか、ということがよく取り沙汰されますけど、これはむずかしい問題だと思う。いまだにはっきりとこうだとは答えられませんねえ。ただ、たとえばいまでも地方へ行くとフランス料理なんてまだまだ、というところがありますよね。親父さんの世代の洋食といまの洋食とには、そういうようなニュアンスの違いがあるような気がするんです。もっと誇りがあったというか、かなりモダンなものだったと思う。結局、それほど普及していなかったんですから。親父さんは、昭和三十四年に逸早く、フランスへ行ってるんです。向こうで本場の料理をいろいろ食べてきたはずなんです。ところが帰国しても、フランス料理の話もしなければ、作ろうともしない。ひとこと、「たいめいけんは洋食屋を続けていくことにする」といっただけ。オレはオレのやり方でやる、ということです。
 そういう親父さんが作り上げてきたうちの洋食というもの、これは案外と守られている。というか、古い職人が五、六人いますから、自然と守るべきところが維持されているんですね。たとえば僕が何か変えようと思っても、「昔からオヤッさんにいわれていますから」となる。でも、それはそれでいいんじゃないかと思っています。
 古きを維持するということではむしろ、仕入れがむずかしくなってきていますね。いつの間にか素材の質が変わっている。これが怖いですね。肉にしたって、同じ肉屋から買ってても、味が落ちていたりする。それで黒豚とか地鶏を使ってみると、今度はお客様からかたい、まずい、なんていわれちゃうわけです。要するに、同じやり方だけでは維持できない面もあるんですね。
 仕入れ先とのつき合いが長い、という点でも、いい面と悪い面との二面があります。洋食屋の仕入れは主に肉がポイントになるから、三、四軒から選んで買っているわけですが、それでも肉屋の方で、この店はこういう格の店だと、勝手に格付けしてしまうところがある。この店ではこういうものしか使わない、とね。長年の間に決まってしまっているようなところがあるんです。まあ嬉しい部分もあるけど、その時に欲しいものが手に入りにくい面も出てくるんです。それから海老の場合、河岸で買い集めてきてくれる納め屋さんというのがある。そうすると、これも長い付き合いで、手を尽くして集めてもらっているから義理人情もからんでくるんですね。だから、のほほんとしていると損する。そのへんの駆け引きも結構むずかしい。だからといってね、たまに水産会社から安いのがあるよ、といわれてまとめて買う時もあるんだけども、結局は小回りがきかないし、長続きしないんですね。
 親父さんの頃は、いい素材を仕入れて、それをある程度の値段で売ればいいんだって、それをモットーにしていたようなところもありましたけど、いまはそういうわけにはいかないでしょ。材料の質、値段の両方が、ずいぶんと変わってきていますから。そうすると、料理と同じで仕入れの方も昔と同じやり方だけでは通用しないってことになりますよ。

お料理一一〇番、五〇円のボルシチとコールスローと名物はいっぱい

 昔からの人気メニューですか。僕が本格的に店を手伝い始めたのが昭和二〇年代の後半、中学生の頃ですけれども、その頃、海老フライがやけに売れたのを覚えていますね。ご飯を付けて一〇〇円から一二〇円くらいだったか。それで、あまりにも海老が売れてどんどん仕入れるものだから、どこかへ横流ししているんじゃないかって、海老屋の旦那が見に来たそうです。戦前、もうかなり物資がなくなってきていた頃、今日は海老フライがあるっていうとお客が並んだ、という記憶もありますよ。
 余談ですが、戦時中、とにかく材料がなくて困った時、おから、ふかしさつまいも、しゃけの頭なんかを混ぜて、代用品でなんとかコロッケらしいものを作った。親父さんは秘密兵器V1号なんて名付けていたようですが、戦時下の名物でした。海老フライ以外の人気メニューといえば、洋食屋の主流はなんといってもフライ、ソテー、シチュー、それにライスものですからね。カツライス、コロッケ、ハンバーグ、ポークソテー、ビーフシチュー、それと、カレーライス。こんなところですか。これは戦前とほとんど変わっていないんじゃないかな。
 それと、うちでは、ラーメンをやってるでしょ。昭和二〇年代後半に親父さんが始めたんですけど、結局、自分が好きで食べたかったからなんですね。昔修業していた「泰明軒」でもラーメンを出していたそうですけど。で、このラーメンも以来ずっと、人気メニューになっています。まあ、僕の代になってからスープにしても麺にしても、全部変えてきてはいますが、でもラーメンもむずかしいね。
 十八種類の料理を組み合わせた小皿料理、このおかけでずいぶんと客層が広くなりましたけども、最初の頃は大変だったんです。そもそもはお馴染みさんにつまみをちょこっ、ちょこって出したのが始まり。いまほど混んでいなかったですからね。で、それだけやってみようということになって。冷蔵庫を開けてみて、さて、明日は何を出そうか、なんてやってたから、内容は毎日違ってました。それがどんどん注文が増えてきて対応しきれなくなって、ようやくメニューが固定化していったんです。いまはミニ・ラーメンが付いてますが、最初はお茶漬けでしたよ。

※東京の一洋食屋である「たいめいけん」の名を大いに広めたのは、昭和三十四年、フランスから帰国した初代が始めた「お料理一一〇番」であった。初代は台所の救急車という意味合で「一一九番」としていたが、三十六年にTVの料理番組にレギュラー出演することになったさいに、ゴロが悪いからと「一一〇番」に改名。茂出木氏は、「親父さんから引き継いだ仕事の中でも最高のもの」と話す。そして、現在もこのサービスは続いている。
 「たいめんけん」といえばもうふたつ、名物メニューがある。一皿五〇円のコールスローとボルシチがそれだ。

洋食は和洋折衷の料理。その具合がむずかしく、また限りなくおもしろい

 親父さんの代から洋食屋として築き上げてきたもの、それをきっちり守り通していくことはもちろん大事なんですが、反対に変革というか、常に新しいものに挑戦していくことも大切だと思っています。毎日の仕事の中で、何かヒントとかアイデアがあれば、それはすぐに試していますよ。その努力は絶対に欠かしちゃいけないと思っているんです。ただ、そうはいっても手持ちの材料の中で工夫するとか、やり方を変えてみるとか。まあ開発というよりも、アレンジが主にならざるを得ないところはあります。店にある素材の中でやりくりするというのが、本当はいちばん大事なことなんじゃないでしょうか。
 さっきもちょっと触れましたけれども、洋食屋というのは、洋の部分と日本の料理をどのへんまでミックスさせられるのか、その和洋折衷の具合、程度がいちばんむずかしいし、また、おもしろいところでもあるんです。おもしろい、というか便利なところは、洋、というのは外国から入ってきた、という意味だから、たとえば中華風であってもいいし、エスニック風であってもいい、そういうことなんですね。
 古いコックがいて仕事のやり方をしっかり押さえている。それは強みでもあるわけなんですけど。お袋も元気で毎日店に出ていろいろと目を配っていますから、守りはある程度固められている。でも、僕はわりあい新しがり屋のところがあるし、常に何か違うことに挑戦していたい。だからいつも、もっと考えろ、勉強しろって、若い者の尻をひっぱたいていますし、僕自身も、新聞を切り抜くとか、テレビを録画するとか、情報収集の努力もしているつもりです。