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INTERVIEW

月刊食堂2009年3・4月号「私の創業記」より

独立制度がすべての基礎に

平 辰氏(㈱大庄 創業者)
 
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 1968年、東京都大田区の池上本門寺参道脇の飲み屋横丁に1~2階合わせて12坪の焼とり店「とき」が開業した。それから40年後の現在、ときは大庄グループの原点として同じ場所に佇んでいる。
 グループ総帥の平 辰氏の第一歩は、もと特飲街だったという小便臭い横丁に建つこの小さな店からはじまったのだ。

――1980年代前半、折からの大衆居酒屋ブームを背景に、居酒屋チェーンは激しい出店競争を繰り広げていた。しかし、頑としてそこに加わらなかったのが庄やグループ(当時)だった。
 庄やグループは当時、ひたすらに調理師を育てていた。80年代前半は、教育体系づくりに力を注いだ時期だったのである。
 その結果、コックレス化とフランチャイズ(FC)によって一気呵成の出店を行なったチェーンに比べ、庄やグループは店数においては大きく水をあけられた。しかしこの投資により、店舗の調理技術は飛躍的に向上。先行チェーンを圧倒する商品力を獲得した。そして店数の差はみるみる縮まり、ついには追い越すまでになったのである。
 いわば大庄グループは、調理技術をベースに店数を4桁に近付けためずらしい外食企業である。その異色の企業グループをつくりあげた平氏は、1940年に新潟・佐渡島で7人きょうだいの第4子としてこの世に生を受けた。

「実家は農業と竹工業を営んでいました。高校を卒業して佐渡を出るまでは時間があれば家業の手伝い。畑に行ったり、竹を取りに行ったりで、楽しみは釣りに行くぐらいでしたね。母親の実家も網元でしたし、和食居酒屋を多店化したのも、一番慣れ親しんでいた食べ物が魚だったからでしょうね」

――高校を卒業し、上京した平氏が社会人になったのは21歳の時。大学を中退し、日立製作所に入社したのである。配属先のIBM課はコンピュータを日本で最初に扱った部署であり、「プログラミングから何からすべてやらされた」と言う。
 残業が続くハードな仕事だったが、それなりの充実感を得ていたこの職場を平氏は3年で退職。そして滅菌箸の製造・販売というまったく畑違いの事業を興した。そのきっかけは、残業の後に食べに行っていた渋谷の台湾料理店。味の点は申し分なかったのだが、箸立ての中に虫の死骸が入っているなど、めっぽう汚かった。何とかきれいな箸を使えるようにしたいという思いが平氏を起業に向かわせたのである。

「割り箸を再生ビニールで包んでシールし、高周波で滅菌したので滅菌箸と名付けたのですが、これがけっこう当たりました。ところが開発を頼んだ自称博士が、実は前科4犯の詐欺師だったんですよ。それでスッテンテンどころか手形まで持つことになってしまった。まあ製袋機がありましたので、それを売って手形を清算し、手元に40万円ぐらいは残ったんですけどね」

――その後、浪人生活を送っていた平氏だったが、東京・新宿歌舞伎町で喫茶店を営んでいた義理の兄が、新しい店をやりたいので手伝ってくれないかと申し出た。義兄はフラフラしている義弟を見かねて声をかけたわけだが、当時外食業はまだまだ水商売という意識が大勢を占めており、周囲からは反対の声しかなかったという。

「でも、外食業が儲かることは滅菌箸をやったことでわかっていたんですよ。だって、デパートの食堂なんかには何千膳という箸を納めるんですよ。1日1000膳を消費するとしても、1000人の来客数があるわけで、それに客単価を掛ければ月の売上げがわかる。それでどのくらい儲かるのかを聞き出してみると、最低でも60%の粗利があると言うじゃないですか。
 われわれは箸1膳売って何銭何十銭という商売だっただけに、こんなに粗利のある商売は他にないな、と。だからレストランを手伝ってくれと言われたときも、周りの反対は気になりませんでしたね。
 その当時、世田谷に『ロッシュ』という洋食レストランがあって、義兄が言うにはその中華料理版をやりたい、と。でも、自分は渋谷の台湾料理店に通っていたから、台湾人を使うのは難しいと思っていました。それで義兄には洋食でいこうと説得しました」

雇われ店長時代、売上げが高すぎて金勘定が嫌になった

――こうして誕生したドライブインレストラン「ファンタジー」は、ロッシュとともに60年代の東京の遊び人たちにとって伝説的な店になった。建坪70坪で、残りは駐車場にしたものの車が収容し切れず、246号には不法駐車が連なった。そのことでずいぶんと警察のやっかいにもなったという。

「店長として人集めから全部やりました。といっても、コックの手配につてはありませんでしたので、学生時代にアルバイトをしていた『東宝食堂』の常務を頼ったんです。そこで紹介していただいたのが『精養軒』の秋山徳蔵さん。秋山さんのところに行くと、今度は『帝国ホテル』の村上信夫さんを紹介してくれた。それで村上さんを訪ねたら、フランスから帰ってきたばかりの実カシェフが4人の部下を引き連れて来てくれることになったのです」

――最高のロケーションで最高の料理人に恵まれたことで、ファンタジーはたちまちロッシュに比肩する繁盛店となった。最盛期には日商150万円を弾き出し、レジを締めて朝まで計算しても金額が合わない。そのことで頭を悩ませることもしばしばだった。

「私が店長で、義兄の次女も店に入っていたのですが、彼女が東京・上野のアメヤ横丁から仕入れてくる輸入菓子ですら1日3万円近く売れました。大変な話題となり、そのおかげで義兄は、その頃設立されたドライブイン関連協会の初代会長に就任したぐらいです。
 しかし、この店も3年で辞めました。義兄の次女がファンタジーのお客さまのひとりと結婚することになって、だったら彼を店長にすればいいと決めたんです。所詮は雇われ店長でしたし、義兄には息子もいましたからね」

最初に開こうとした割烹店は工事の途中で怖くなって売り払ってしまった

――ファンタジーを退職した平氏は、いよいよ自らの店を持つ準備に入る。考えていたのは故郷の味を提供する割烹スタイルの居酒屋で、店名も「佐渡」と決めていた。
 ただし、手元に残った40万円をはたいてアメリカ大使館の前に店を借りたため、内装に回す費用がない。そこで工務店に「開業後に月賦で支払いしたい」と頼んだところ、「1年契約なら」という条件付きで施工してもらえることになった。

「ところが店が完成に近付いてくると、そのぶん不安ばかりが募ってきたんです。魚の仕入れのつてはないし、料理のこともまったくわからない。運転資金もないわけですから、それもどこかで都合しなければならない。お金はかかるのにお客さまが来る保証はないわけで、眠れなくなるぐらいに悩みました。それで結局、開業する前に売ることにしてしまったんです。
 もちろんそのままでは売れませんから、いったん完成させて新聞広告を出したら、680万円という高値でパッと売れました。工務店に内装の工賃を支払っても280万円も残りました」

板前の問題を解決しない限り悩みを抱え続けることになる……

――その280万円を元手に開業したのが、冒頭で触れた創業店のときである。
 1階はカウンターとテーブル2卓、2階は4畳半2間の座敷席を設えた。土地建物はすべて取得する形をとったが、その方が家賃を払い続けるよりいいという判断の他に、「おっちょこちょいだからいつ失敗するかもわからない。だったら土地があったほうが安心だろう」という理由もあった。
 また、焼とりを選んだのは、調理技術をさほど必要としないからだ。ただし、鳥のさばき方や基本的な調理については、3週間ほど焼とり店で修業して学んだ。
 ところが、店を開いた当初はお客がまったく入らず、平氏は毎日「腐りかけの焼とりで食いつないでいた」と言う。「店というのは開けばお客が来るもの」と思っていた平氏の当てはすっかり外れた。待てど暮らせど、若鳥焼ときにお客は来なかったのである。
 チラシを配ったり、さまざまな手を打ったが成果が出ない。ついに何もやりようがなくなり、平氏は特飲街の掃除をしたり、近所の銭湯に行ってお年寄りの背中を流したりしたという。
 しかしそれが功を奏した。開業から1週間後、その銭湯で知り合った老人が孫を連れて焼とりをお土産に買っていってくれたのである。さらに周りの店から出前の注文も入るようになり、少しずつ飲食店としての態を成していった。

「1人でもお客さまに来ていただいたら、お帰りになるまで何十回も『ありがとうございます』と言いましたね。口先ではなく、生活のかかった感謝の言葉だったから、相手の心に響いたんじゃないかと思います。酔い潰れたお客さまをご自宅まで自転車で送ったこともありましたが、次の日にはその方がお子さんを連れて来店してくださった。サービスの原点を学んだのはこの頃だったと思います。
 何とか店が回るようになるまで1ヵ月ぐらいかかりましたが、その頃からはじめたのが日掛貯金。これから頼りになるのはお金しかないということで、毎日1000円を取りにきてもらうようにしたのです。手元に1000円しかない時でも続けていこう、無理してでも貯めていかないと、売れなかった焼とりを食べなければならない蟻地獄から抜け出すことはできない、と考えたんです」

――生活のかかった心からの言葉は、相手の心に響くだけでなく、行動も変えていくということを、平氏はこの店から学んだ。
 やがて若鳥焼ときは日商で9万円を売るようになり、1000円からはじめた日掛貯金も、最終的には1万円まで掛け金を上げることができた。そして創業から3年後の71年11月、平氏は㈲朱鷺を設立。東京・三崎町に居酒屋「太平山酒蔵」を開業した。

「若鳥焼ときはお客さまが入らなくて板前が辞めたりもしましたが、太平山酒蔵は開店直後から爆発しました。ところが今度は、それが原因で板前がどんどん辞めていく。あまりに忙しすぎて板前が居着かないのです。
 彼らにしてみれば、辞めてもすぐに調理師会が次の板場を紹介してくれますから、生活には困らない。もともといろいろな板場で経験を積んだほうがいいという考えが当時の調理師の間にはありましたから、きつい仕事を我慢する必要はないという意識が蔓延していたのでしょうね」

――73年3月には太平山酒蔵の近くに、「かまどの煙、鍋の湯気」をキャッチフレーズにした「庄や本家店」を開業し、平氏はいよいよ庄やブランドでの展開を開始する。同年12月にはその支店として、やはり近接地に「庄や分家店」をオープン。三崎町で3店を経営するまでになったが、依然、板前の問題には頭を悩ませていたという。

「これは私自身にも問題がありました。というのも、人は何のために働くのかという発想がその当時の私にはなかったからです。むしろお金さえ出せば人は働くと単純に思い込んでいたところもあった。儲けたお金は次の店に注ぎ込み、もっと売上げを上げて給料を増やせばいいと思っていたんです。
 しかしある時、この問題を解決しないことには、いつまで経っても同じことの繰り返しだと気が付いたんです。
 そこで板前一人ひとりと話し合ってみると、将来は独立して自分の店を持ちたいという人が非常に多かった。だったら、本当に独立したいという人に店を持たせてあげよう、と。これが後の独立制度につながるわけですが、この時に条件にしたのがマネジメントを覚えること。独立するには技術だけあってもだめで、店を経営する力が必要なんだと説明したわけです」

独立制度を維持するために協同組合を設立したこと。これがすべての基礎となった

――この当時の話し合いがもとになって生まれたのは、独立制度だけではない。所得倍増制度と持ち店(ダブルインカム)制度もこの時につくり上げたものである。
 いずれも従業員の夢を叶えるための仕組みとして生まれたものだが、現在はさらに選択肢が拡大し、8大制度(ストックオプション制度、従業員持株制度、所得倍増制度、持ち家制度、持ち店制度、執行役員制度、独立制度、Uターン独立制度)に発展している。
 また、調理師会に頼るのではなく、自前で板前を育てていく必要性を痛感したことから、いずれは調理師の学校を設立しようという夢もこの時に思い付いた。これが冒頭で触れた日本料理専門学校が生まれるきっかけになったのである。
 独立制度を掲げた平氏は、75年9月、早くも独立制度適用第1号となる庄や春日店をオープンさせた。口で言っているだけでは、誰も信用してくれないと考えたからだ。
 ところが実際に独立オーナーが誕生したというのに、従業員のほとんどは制度を信じなかった。というのも、オーナーが平氏の親戚だったためである。

「それならということで、2人目を独立させたんですが、この時は私と同郷だからと言われ、3人目も今度は私の友達だからと、やっぱり半信半疑だったようです。ようやく信じてくれるようになったのは、4人目の独立オーナーを送り出してからです。彼は新聞広告を見て入社した人物で、これでようやく自分たちにもチャンスがあると考えるようになってくれました。
 ところが今度は、独立資金を調達することができなくなった。節税対策で直営4店をそれぞれ別会社にしていたため、独立の資金は私の個人保証で調達していたのですが、これ以上の融資はできないと銀行に断られてしまったのです。ですから、5人目を独立させるのにはひと苦労でした。だけどここで独立制度を諦めたら、従業員との約束を破ることになる。その怖さを強く感じていたので、どうしたらいいのかとずいぶん悩みました。
 そんな時に思い出したのが、佐渡の実家でお世話になっていた農協の仕組み。協同組合形式なら資金調達もしやすくなるのではと考え、東京都中小企業団体中央会に相談して、組合のつくり方を教えてもらいました。
 それで独立した4人のオーナーに協力をお願いして設立したのが、協同組合庄や和食グループ。1人を独立させるために、設立メンバーの社長全員が保証し、仮に店の経営が立ち行かなくなった時も、店舗はそのうちの誰かが引き受けて運営する、という形で支援することにしたんです」

――組合設立の背景としては、グループが拡大することで食材や什器備品の共同購入、サービス向上のための共同教育が重要な課題になっていたことも挙げられる。また、社内の研修機関であった日本料理専門学校が、労働省(当時)認可、東京都認定の東京都調理高等職業訓練校へと発展することができたのも、組合の存在が大きかった。
 平氏は「組合の設立がすべての基礎となった」と振り返るが、この時から大庄の飛躍ははじまったのである。