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INTERVIEW

月刊食堂2008年11・12月号「私の創業記」より

次の時代に何が求められるか

鳥羽博道氏(㈱ドトールコーヒー 創業者)
 
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次の時代に何が求められるか。危機感があればピンとくる

――嗜好品であったレギュラーコーヒーが国民飲料として定着したのは、ファミリーレストランとドトールコーヒーショップ(以下DCS)のおかげである。というのは極論に過ぎるのだが、本格的なコーヒーが気軽に飲めるというインフラを街中に築いたのは、間違いなくDCSである。このエポックメイキングな業態をつくりあげたのが、㈱ドトールコーヒーの創業者、鳥羽博道氏その人である。
 鳥羽氏が外食の世界に身を投じたのは16歳の時。埼玉県深谷市の高校に入学して半年ほど経ったある日、画家であった父親と衝突して鳥羽氏は家を飛び出す。向かった東京・新宿で、レストランのコック見習いをはじめたのが第一歩であった。

 最初の店では半年ほど働いたのですが、その後、東京・お茶の水にあったフランス料理店に移りました。格調の高いレストランだったのですが、コックに空きがなく、バーテンダーとしてカウンターに立った。これがコーヒーに触れた最初の仕事でした。

――今度は東京・駿河台下にあった喫茶店「サンパウロ」に勤めることになった。鳥羽氏がブラジルに渡るきっかけとなった店である。
 鳥羽氏が働きはじめてやはり半年ほど経った頃、サンパウロのオーナーがブラジルで事業をはじめると言い出した。

 オーナーが言うには、「将来、君も呼ぶつもりだが、その時期が来るまでよその店で働いていてくれ」と。それでお世話になったのが、喫茶店にコーヒーを卸していた焙煎会社。18歳の時に入社して、1年間コーヒーのセールスをやったのですが、当時の私は極度の赤面症。人に会うと怖ろしく緊張した。ですから私にとっては辛い1年でしたよ。何十年も経った後も、その時の夢を見てうなされましたもの。
 悩みながらも無我夢中で取り組んだ1年が過ぎると、今度は喫茶店の店長を命じられました。日本最初のショッピングセンターである「西銀座デパート」に会社が直営店を出店することになったのですが、最初に担当していた社員が降りてしまい、「だったら喫茶店で働いた経験がある鳥羽にやらせよう」ということになったのです。

――初めて1軒の店を任されることになった鳥羽氏は、喫茶業が存在する意味をあらためて考えるようになった。
 当時日本は高度成長期に突入、誰もが皆忙しく働く時代になっていた。よく働くぶん疲れるわけで、そうした人たちの疲れを癒し、明日も頑張ろうというエネルギーを与える場も必要になってくる。そういう場を提供することこそが喫茶業の使命であると結論した鳥羽氏は、「1杯のおいしいコーヒーを通じて、お客様にやすらぎと活力を提供しよう」と考えた。
 ちなみに、この時の鳥羽氏の考えは、後にそのままドトールコーヒーの企業理念になっている。

 どうやったら安らぎと活力を与えられるか、その店では色彩心理学を意識した設計も自分で行ないました。まあ、設計といっても真似事で、会社の前の道にチョークで店の簡単な図面を書き、配置などを決めていっただけですが。
 ただ、色遣いには気を付けた。安らぎを感じてもらうために、バックバーにクリーム色のデコラを張り、間接照明でやさしい色合いを出したし、活力を生み出す赤は、さすがにそのままでは使えないので、茶褐色の家具を配したり。また、いくら都会人といっても田舎から出てきた人が多いのだから、壁には麦わらを編んだ角材を張って郷愁を感じてもらえるようにしました。

そこで這い上がれれば、何があってもやっていける。そう考えてブラジルへ

 この店は成功しましたね。というのは、「この店に助けられた」「この店に来ると疲れがとれるし、元気になる」という声を直接お客さまからいただけるようになったからです。これはうれしかった。ただその反面、このままちっぽけな店で終わるのは嫌だという思いも湧きあがり、毎日を悶々と過ごすようになりました。
 ひとつのことを成し遂げると、すぐに次のことに頭がいく。いま思えば、ずっとこの繰り返しでしたね。

――そんな時、ブラジルに渡った喫茶店のオーナーから手紙が届く。待ち望んでいた報せではあったが、不安が大きかったのも事実である。
 言葉もわからず、学歴もない20歳の自分がブラジルに渡って、果たしてやっていけるのか。もしかしたら奴隷のように働かされるかもしれない、とまで考えたという。

 でも、高校中退というハンデを取り戻すには海外に出るほうがいいのでないか。それに、サンバの国なら自分の内向的な性格を変えられるかもしれないし、もしブラジルが蟻地獄のようなところでも、そこに身を投じて這い上がることができたら、そこから先に何があってもやっていけるはずだ。そう考えてブラジル行きを決めました。
 ブラジルではコーヒー関係の仕事の他に、工事現場の監督をしたり、いろいろなことをやりました。現地の人間を雇って仕事を進めるわけですが、彼らとは相撲をとったり、弁当を分けあったりでよい関係を築けた。ところが、オーナーとはだんだん反りが合わなくなっていった。議論を重ねても、私の意見がまったく受け入れられないということもしばしばでした。
 ちょうどブラジルに渡って2年半経った頃、かつて働いていた焙煎会社から、「また働いてほしいから日本に帰ってこないか」という連絡がありました。

「今日は体の続く限り働こう」。この開き直りが会社を救った

――帰国後、焙煎会社に戻った鳥羽氏は、やはり1年ほどセールスを担当する。トップは気性も人使いも荒かったが、非凡なアイデアマンで、鳥羽氏もセールスの傍ら一緒になって新しいコーヒー商品の開発に参加した。
 それなりに充実していたが、ある時トップが先輩社員を殴っている姿を目撃してすぐに辞表を書いた。昔から武者小路実篤の世界に影響を受け、新しき村思想にも触れていた鳥羽氏は、会社とは厳しさの中に和気藹々たるものであるべき、と考えていた。
 この会社にそれが望めないのであれば、自分で理想の会社を創るしかない。社名もすぐに浮かんだ。ブラジル時代に住んでいた地名「ドトール・ピント・フェライス通り85番地」。これにちなんで名付けることにしたのである。
 こうして1962年、鳥羽氏が24歳の時に㈲ドトールコーヒーが設立された。ブラジルで貯めたお金は父親に渡してしまったので、資金は借りてきた30万円のみ。これで東京・赤羽橋に8畳一間を借り、中古の焙煎機とテーブルを揃えてスタートを切った。

 理想のもとに会社を興したわけですが、中古の焙煎機では品質がよいわけがないし、この規模では安くすることもできない。理想はあっても現実は甘くない。毎日、潰れるんじゃないかと不安でしたね。
 ただ、ある日気が付いたのは、「潰れると思うから心が萎縮し、思い切った働きができないのではないか。だったら、明日潰れてもいいから、今日は体の続く限り働こう」。そう開き直って考えるようになると、だんだん助けてくれる人が出てきた。経営の苦労を知っている喫茶店のオーナーが、いろいろなお店を紹介してくれるようになったんです。

――10年後の1972年、鳥羽氏はコーヒー専門店「コロラド」を東京・三軒茶屋に出店する。当時の喫茶店は客席が6回転すれば成功といわれていたが、コロラドは何と12回転という驚異的な数字を記録。また、いまや喫茶店の定番メニューになったピザトーストを開発したのもこの時だった。
 この数々の伝説を持つ喫茶店が生まれたきっかけは、あるコンサルタントに対する怒りだったと鳥羽氏は振り返る。

 そのコンサルタントには卸し先を紹介してもらったりしていたのですが、その中に夫を亡くし、その生命保険で喫茶店を開業して生計を立てたい、という方がいたんです。それでコンサルタントが指導したのですが、うまくいかず、結局失敗して奥さんはノイローゼになってしまったんです。
 それなのに、きちんと成功に導くことができなかったコンサルタントは、善処するでもなく、しゃあしゃあと高級外車に乗っている。
 こんな汚いやり方はあるか。こんな不幸な人を二度と出してはならない。そういう思いから自分たちがモデルとなるような店をつくるしかないと考えた。それがコロラドだったんです。

侘しいのは絶対にダメ。喫茶業は人の心を豊かにするものでなくてはならない

――コロラドの展開がスタートする1年前の1971年、鳥羽氏はヨーロッパのコーヒー業界を視察するツアーに参加する。ここで鳥羽氏は、日本の焙煎業、そして喫茶業の未来を予感させる光景と遭遇することになった。

 ちょうど朝の通勤時間帯に差しかかった頃に、フランス・パリのシャンゼリゼ通りを歩いていたんです。すると、地下鉄の階段から通勤者がどっと溢れ出てきて、その人々がこぞってカフェに入り、立ったままコーヒーを飲んでいる。テラス席もテーブル席も空いているのに、どうしてカウンターを二重三重に囲んでまで立って飲むのか。最初はわからなかったのですが、よく観察すると、テラスやテーブル、立ち飲みでそれぞれコーヒーの価格が違う。立って飲むのが一番安いんだと合点した時に、胸の中で「これだ!!」と叫びましたね。こうすればコーヒーを安く売ることができる、喫茶業の最終形態はこれしかない、と思いました。

――この当時の鳥羽氏の胸のうちには、高度成長期の最中に高騰し続けるコーヒーの価格に対する危機感があった。
 物価の上昇が進む中、コーヒーの価格が上昇することに誰も疑問を感じていなかったが、このまま値上がりが続けば、いつかきっと消費者がその価格を受け入れなくなる。鳥羽氏はそう考えたのであった。(中略)

 コーヒーを嗜好品として売るなら少々高くてもいい。しかし、すでに生活必需品として毎日欠かさず飲んでいる人たちにとって、コーヒーの価格がいまのままでは負担が大き過ぎる。
 毎日でも飲めるコーヒーの価格はいくらなのか。そう考えて導き出したのが150円という値付けでした。原価をいっさい考えずに算出した金額ですから、この価格を実現するためには、立ち飲みスタイルでやるしかない。
 そんなことを考えている時に、たまたま原宿駅前の9坪の物件でコロラドをやりたいというオーナーが現われたんです。とはいえ、9坪では客席はせいぜい15~16席しかとれないし、売上げもすぐに限界に達してしまう。ところが、立ち飲みであれば客席回転の課題もクリアできる。駅前という最高の立地を生かすにはこれしかないとオーナーを説得しました。

――鳥羽氏は店をつくる際に、必ずショップコンセプトを明確に描き、妥協することなくそれを実現してきた。コロラドが成功したのも、「健康的で明るく、老若男女ともに親しまれる店」というコンセプトのもと、それにふさわしいインテリアや商品構成、サービスの提供に徹底して努めたからである。
 東京・原宿のDCS1号店で鳥羽氏が描いたコンセプトは、「さりげなく小粋に、立って飲むことをファッションにする」というものであった。当時の鳥羽氏の頭にあったのは、東京の有楽町駅にある「キオスク」。吹きっさらしの中、温めたコーヒー牛乳とあんパンをかじるサラリーマンの姿であった。

 そんな立ち飲みではいかにも佗しいじゃないですか。店をやる以上は、人の心を豊かにするものでなければならない。そこで、立って飲むことがかっこいいと思わせるような店にしようと考えたのです。「安く売る=安い店づくり」では絶対にダメ。コーヒーカップも1客2300円もするボーンチャイナにするなど、食器もできるだけいいものを揃えるように意識しました。
 その一方で、150円(当時)という価格でコーヒーを提供するために、食器洗浄器やコーヒーマシン、自動トースターにソーセージのローラー型焼成機などをカウンター内に装備して自動化を進めました。

――1980年4月18日、ついにDCS1号店がオープンする。もとはすし屋だった仕舞屋で、2階はオーナーの住居。さらにオーナー家族の強い要望で、1階に風呂場もつくることになっていた。そのため、カウンターの長さや幅は、1~2cm刻みのぎりぎりのところまで考え抜いて設計された。
 ベストセラー商品のジャーマンドックも、1号店のオープン当初からすでに導入していた。というよりも、コーヒー1杯を150円で提供するDCSは、もともとフードの存在なくしてはとうてい成立しない商売だったのだ。その意味では、ジャーマンドックの開発こそが、DCSという業態の心臓部だったといっても過言ではない。

 狭い厨房では、トーストかホットドックぐらいしか調理できませんよね。そこでドイツで食べたホットドックを再現したいと考えたわけです。ところが、当時の国内のホットドックパンは柔らかいものしかなかったし、ソーセージも制限があってヨーロッパからは輸入できない。そこで国内のメーカーを探して、パンとソーセージをいちから開発してもらうことにした。商品名もホットドックではつまらないので、ジャーマンドックにしました。

――DCS1号店は1日800人のお客が訪れる記録的な大ヒツトを飛ばした。客単価は220~230円だったというから、日商は何と18万円。これまでの喫茶店の常識を覆す桁違いの爆発力であった。(後略)