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INTERVIEW

月刊食堂1991年2月号「たべものやの証人たち」より

昔のふぐは気楽な食べものでした

吉田徳太郎氏(ふぐ料理 にびき 主人)
 
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 いまふぐ料理といえば、関西流の料理を指す。関西風に言えば、ふく刺し、ふくちりなどである。それが東京で一般的になったのは関東大震災でそれまでの飲食店が大打撃を被り、代わって関西割烹の料理人たちが大挙して流入してきてからのこと、とされる。
 ふぐは古代から食されてきた魚だが、中毒死を怖れて江戸時代、各地諸藩命によって永くお止め料理だった。江戸も武士は禁じられていたものの、町人たちは盛んに食べていたと言われる。「にびき」は、その江戸のふぐの流れを伝える老舗で、吉田氏は六代目に当たる。
 明治以降、東京市中にはどぶろくを製造販売する居酒屋風の店があり、ふぐは酒肴の一品として出していた。ふぐといってもトラフグではなく、安価なショーサイフグで、かつては東京湾で大量に獲れた。それを鍋ものや煮つけにして売ったのが戦前まで。いまや幻のふぐ料理になってしまった。

東京でふぐというのは、震災以後の話になります

 うちは創業から明治までは、いまの上野駅の前あたりだったんです。ところが明治二七年の日清戦争の頃、上野駅を拡張するということで場所を取られて、音の家がみんな取り壊しになっちゃったんです。それで下谷に移ってきたんですが、うちのもともとの商売というのが、どぶろく屋なんです。その時分東京の居酒屋というのはみんな、自家製のどぶろくを造って、それを店で飲ませもするし卸しもしていたんですね。このへんは私のおじいさんから聞いた話なんですが。東京どぶろく酒造組合というのもあって、二〇軒くらいだったそうです。いまでも当時のお仲間が、四、五軒残っていて、神楽坂とか浅草でふぐ屋をやっていると思いますよ。
 ということは、その時分、どぶろく屋の頃からふぐを売っていたわけです。うちの場合も、酒の肴にはわりあい力を入れてましてね。ただ、いまは何でもないわけだけど、徳川の時代からふぐというと毒にあたるんじゃないかとうるさかったわけでしょう。だから、ふぐというのをあまり表へ打ち出せないんですね。それで、これはいまでもフグの一種なんですけど、ショウサイなんだ、ということにして、サイ鍋と称して売ったものなんです。このサイ鍋が、東京でふぐを売ったはじまりなんじゃないでしょうか。鉄の鍋で、春菊、ネギ、焼豆腐、シラタキを入れて、まあすき焼き風の鍋ですね。私がまだ小僧だった昭和一〇年頃までは、うちではそういうふうに売ってました。
 昔はね、湾内でもうんと獲れたものなんですよ、江戸前のフグがね。もっとも、刺しにするようなトラフグはたまに獲れるくらいで、いっぱい獲れたのはショウサイフグとかゴマフグだとかの、ちょっと身のやわらかいやつです。ところが、ショウサイ鍋を売っている家は、そんなに数がない。だから河岸で余っちゃってどうしようもない。そうすると、にびきさん、捨て値でいいから持ってってくれ、と言われる。しょうがないからそれを大入の荷車に積んで帰って、さばいて、皮をむいてきれいに洗って、それを大きな鍋で煮ちゃうんです。しょうゆとみりんとお酒と、あと砂糖もちょっときかせてね。
 東京湾でフグが湧いちゃって、始末がつかないほど獲れちゃったというのは、私の小僧の時代、親父と一緒に買い出しに行った頃で、河岸も日本橋にあった時代です。でも、うちだってそんなにおっつけられても、たかが知れてますよね。残ったフグをどうするかというと、ハンペンとかカマボコ、サツマ揚げといった練り製品をやってる家へ引き取られるわけ。それを潰し、と言ったんですけどね。捨て値でも、潰しに回すよりかはいくらか値が取れるわけなんですけど、うちもそんなにはいりませんからね。だから、昔のサツマ揚げはうまかった。なにしろフグを潰したんですからね。東京湾のフグはいまでも獲れてますよ。でも、高度成長で湾内が汚れちゃってから全然だめになって、河岸でセリにかけるほどは獲れないんですね。
 東京にチリ鍋が入ってきたのは、関東大震災後です。ボン酢で食べるというのは、上方の食べ方ですからね。それがどうして急に入ってきたのかというと、震災で東京はみんな焼けちゃって、職人さんたちは働き場所がないから関西へ行ったわけ。で、昭和三、四年頃から東京も復興して、そういう職人さんたちがどんどん戻ってきて、関西の大きないい料理屋さんも東京に進出してきた。当然、ふぐがメインですよね。で、料理屋さんが売るから、河岸にもトラフグが入ってくる。われわれみたいな安売りの店でも、マグロの刺し身ばかりじゃしょうがないからふぐ刺しもやる、チリ鍋もやる、とこういうことだった。ただし、ポン酢の味は東京の人に合うように、ダイダイでごっつい酸味をつけたわけです。とにかく親父の話では、いまでいう東京のふぐというのは、大正一二年の震災後の話です。高級な料理屋さんとかいい家のことは知りませんけど、それまでは私らみたいな大衆的な居酒屋は、サイ鍋にするか煮つけにするか、要するに酒の肴。で、江戸時代からの伝統を引き継いできたのも、このサイ鍋と煮つけなんです。

――吉田氏は大正五年生まれ、ふぐ料理「にびき」六代目主人である。「にびき」の創業は江戸時代末期の嘉永元年(一八四八年)。現在の関西流のふぐ料理が東京に根づいたのは、震災後の昭和に入ってからとのことだが、東京には、江戸町入以来の別のふぐ料理の系譜があり、吉田氏はちょうどそのふたつの流れの合流と分岐とに立ち合ってきたことになる。貴重な証言である。「にびき」は、戦後になって関西流の商品に変わってからも、庶民の手近な酒肴だった江戸以来の伝統を継承し、下町のふぐ料理屋としていわゆる高級店路線とは決然と、袂を分かつ。
 ちなみに「にびき」の由来は、丸の中に二の字を染め抜いた暖簾の紋から、「丸ににびき」さらに「にびき」と通るようになったとのこと。江戸っ子のはしょりである。四代目の頃からだそうで、正式の屋号は「内田屋」。

いまは乱獲でいい漁場がだんだんだめになってしまった

 戦後は東京湾のフグを当てにするわけにいきませんからね、品物は全部、下関からのものです。ところが、下関の方もだんだんおかしなことになっているらしいんですね。三〇年くらい前までは、瀬戸内の尾道とか広島沖でいいフグが獲れましてね。向こうの荷主から直に仕入れてたこともありました。もちろんトラフグですよ。でも、コンビナートができたりしてあのあたりの漁場もだめになっちゃって、豊後水道の方に移ったけれども、いい漁場はみんな、だんだんだめになってしまったようです。だから結局、いま下関といってもあそこから船を出して遠くで獲って、それをあそこに集荷するわけですよね。まあ、私はあまり詳しくは知らないんだけれども、向こうの荷主さんからこういう話を聞きました。以前だったら船を出して一日くらいの行程で獲って帰ってこられた。ところがいまは、乱獲で近い海だと獲れないものだから、先へ先へと行かなきゃしょうがない。二日どころか一週間くらいかけないとどうにもならない。当然、船の油代もかかるし、人手もたくさんいるようになって、それでもうんと獲れればいいけどバクチ打ってるようなもので、当り外れが多くてどうしようもない。それで値のほうも高くなり過ぎて、この冬なんかうちみたいな安物屋じゃ手のつけられないような相場になっちゃってるんですね。
 いまうちで買ってるのは、ほとんどが丸じゃなくて、身欠きといって向こうで皮までそいで、きれいにつくっちゃってあるものです。紙の箱に入ってきます。そうすると運賃も、丸よりもかからないしね。もちろん品物としても最高のものです、シロといってね。頭や皮もついてきますけど、ヒレとシラコは別。昔はみんなついてたものなんですけど、いまは別買いで買わなきゃいけないんです。チリ用には丸のフグを使うからヒレもついてますから、自分のところで干して使ってますけど、これを買っていたらヒレ酒なんてとんでもない高いものについちゃいます。
 フグはさばいてから一日くらい寝かせるとちょうどいい具合になるんですが、東京オリンピックの頃までは、夜行の客車便で新橋留めで送ってきたものです。そうすると朝、河岸で競って店に持ってくると、ちょうどいいわけ。木箱に水を詰めて送ってきてました。薬味のアサツキを上にのせてね。その次はトラック便で、いまは飛行機ですけど、時間的にはやっぱり一日かかるから同じなんですけどね。でも、トラック便の頃までは関ヶ原あたりの大雪で止まっちゃって、品物を探すのにバタバタしたこともよくありましたよ。

――現在の店舗は震災で焼かれた後、昭和三年に先代が建てたもの。戦災ではこの付近のみ幸運にも焼かれずにすみ、かつての面影を残している。店内は昔気質だった先代の意志を尊重して昭和三〇年に亡くなるまで普請時のままだったが、三五年に、カウンター席を設けるなど一部、手直ししている。しかし、追い込みの座敷などは昔のままの姿で、かつて近所の職人たちが夕方ともなると、玄関の横に道具箱を山と積んだ、という光景を彷彿とさせる。

フグはべらばうに高くなったけど、昔は気楽な食べものだったんです

 戦後は確か、二三年の暮れあたりからでしたね。ところが当時、フグは統制外の魚だったのでやたらとヤミで扱って、馬鹿な食い方したものだから、毒にあたって死んだ人がずいぶんと出たんです。それで、東京都の指導もあって二四年に、フグ調理師試験というのをつくったんです。昭和三年頃につくったわれわれ東京ふぐ料理連盟と都の衛生局とが一緒になって。ところが、私の親父くらいの人たちが実地はいいんだけど、学科で落ちちゃうわけだけど、実地の試験官とか試験をつくった役員が落っこっちゃったんじゃかっこうがつかないでしょ。それで東京都に頼んでその年は試験を二回やったんです。私も親父が、おれは学科はだめだ、字書くのいやだからお前行け、と言われましたよ。戦前は免許がなかったから、どこでも出せたんです。うちはこんな小さな店ですから、職人なんて置かずに親父もひとりでやってたんですが、私が代がわりしてからは、職人を一人ずつ仕込んでやったもんです。板前の部屋から素性のいい若い子を回してきて、仕込んでくれというんですね。結局、大勢使ってるような店ではなかなかフグをいじれない。順番とかがあるわけでしょう。でも、ふぐのブームみたいになって職人が足りない。免許持ってると手間が上がるわけだし、職人が免許持ってればその家はふぐをやれますから、引っ張りだこだったんですね。それで、一人ずつ二年くらい仕込んじゃ免許を取らせて返してました。なに、すぐに覚えるもんですよ。
 それにしても、自分で売っていながらこんなことを言うのはおかしいんですけど、フグもこんなべらぼうに高くなっちゃって、ほんとにいやになっちゃいますよ。そりゃあ以前だって、高価なものでしたよ。でも、そのもっと昔は、サイ鍋とか煮つけとか、気楽な食べものだったんです。戦後、チリが一五〇円か二〇〇円、刺しが三〇〇円くらい。それがだんだん高くなって、親父が死んだ頃はチリが四〇〇円、刺しが五〇〇円くらいだったかな。それで親父が、こんなものをこんな高く売っててこれは違うよって言ったのが、いまでも耳に残ってますよ。いまは他にいくらでもうまいものはあるんだし、ふぐ離れされちゃったらみんな首吊りだよって、組合の仲間とも話しているんですけどね。だから、できるだけいいものを、ぎりぎり安く売りたいんです。まあうちは、息子夫婦とばあさんと親戚と、内輪だけでやってるから、それでもいいほうなのかもしれませんけど、でも、高いから高く売っていいんだってことにはならない、もう少し気楽に食べられないと、と思うんです。