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INTERVIEW

1985年 専門料理7月号 「今月の顔」より

「見えない仕事」が仕事をつくる

鈴木忠英氏(元 大和屋 料理長)
 
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「手が枯れる」まで繰り返す

 品物をいらわずに洗いもんしたり、雑用で動いたりしながら、いろいろ見ますね、仕事を。この見る、ということが大切なんです。ある時、自分の番がやってきても、すぐいらえる。というのも毎日見てますから、それまでに手が枯れてきてるんですね。だから失敗も少ない。
 包丁にしても、最初からケンなんかむかせない。まず漬けものを一所懸命に切るんです。そうすると手が勝手になじんできて、稽古しなくてもケンなんかむけるもんなんです。つまり他のものに携わっているうちに手が枯れてきてるんですね。同じことを千回せい、とよく言われますが、身につくためには数をこなしていくことです。それも正しい姿勢で正確に行なうこと。変なクセがついては、一生直りませんよ。よく台にもたれて仕事をしているのがいます。そんな時は知らん顔して台の上に水を落とす。そうすると自衣の前に水が浸みてきます。それぐらいしないとクセというもんは直らないもんなんです。
 繰り返しているうちに、自然と型にはまってくるもんです。造りをひくにしても、すっと絵になるようにじゃなくちゃ、いけません。最近は箸ですら型のきまらない若い人が増えてますからね。
 それと大切なのは左手です。右手がどんなに上手に動くようになっても、それを補うように左手が動かなくては、きれいな仕事ができません。よく盛り付けする様子を見てても左手がぎこちない人は、盛り付けもきまりません。左手といえば、左ききの人は右手が使えるように直したほうがいい、と私は思います。私のとこでも、これだけの人間が団体生活をしてるんやからお前の包丁だけ別に買うてられん、右手使えるように直せ、今生まれたばかりと思って努力すれば直るはずや、といって直させました。左ききだと、造りを引く時でも魚をひっくり返さないかんし、それだけ絵にもなりませんしね。料理を仕事とするんやったら、私は直したほうがいいと思います。昔はかた真、といって、左ききの人は煮方で真(料理長)になって、他のもんに造りを引かせるケースもありましたけどね。

単に包丁が使えるだけではだめ

 手が枯れて自然に動く、ということは大切ですが、しかし料理人はそれだけでは一人前の料理人にはなりません。もっと頭を使う仕事がたくさんありますからね。極端に言えば魚を下ろすなら魚屋さんの若い衆のほうが上手かもしれんし、イモの皮むくんやったら八百屋の若い衆がずっときれいかもしれませんからね。常に仕事の先、先と読みながら頭を働かせて動いていかな、いかんわけです。
 毎日の仕事でも、平常時と忙しい時とでは仕事のもっていき方、集中の仕方、みな違うわけです。それを料理長に言われなくとも、先へ先へと体が動く。それも全員がそのように動いていって初めて料理というもんは完成するわけです。それには単に包丁が使えるだけではあかん、ということです。
 私どもの調理場は、私が修業した時代と同じような修業方法を取っていますが、今の時代にしては一人前になるのに時間がかかるように見えるかもしれませんが、私とこで修業して他の店に行った時に、その修業の底力がわかるんですね。外に出ていった弟子たちがよくそう言ってます。何にしろ、毎日の努力はみな自分のためですからね、誰のためでもなく、することすることがすべて自分のためになる。それを、人のためにしてるように思って、つらいなんて不平を言うようじゃ、自分が損します。料理屋の息子さんも私どもに見習いに来ますが、うちは礼儀から叩き込みますから親が来て、こんなに立派になったんやからと二〜三年で連れて返ってしまう。そこを七〜八年、辛抱すればいいんですがね。
 最近は見える仕事ばかりで、見えない仕事を大事にしなくなりました。私は見えない仕事を大切にせな、いい料理人にはなれないと思うんです。今まで話してきたように、若い時からひとつひとっ積み上げて、基礎をしっかり身につけなければと話してきたのもそうしないと「見えない仕事」がわからないからです。
 たとえていえば、盛り付け台でも、上っ面なら誰でも拭きますけど、縁までは拭いていませんね。でも、このように縁を拭く、という見えない仕事こそ、実はすごく大事なんですね。それは技術でもそうですよ。同じものを炊くんでも、昔の人は目に見えないところに実に多くの神経を使ってた。つまり見えない仕事を大切にしてたんですね。私たちは日本料理の技術を守っていくためにも、そうした奥行きのある仕事、を伝えていかなければいけないと思っています。
 献立なんかにも、実はひと言の中にたくさんの情報が盛り込んであるんですよ。知らない人には全然分からないけど、きちっとした仕事をしてきた人には、それがわかる。つまり見えない献立がそこに書いてあるわけです。
 たとえばアコウの湯洗いは、煮方がするんじゃなく、向板が湯を別に置いて、そこでするもんですよ。ていねいにね。逆に霜を降ると言ったら、火にかけた鍋で魚をさっとくぐらせるわけだから煮方の仕事です。そんなこと話していったらきりありませんが、仕事というもんは、日にキラキラ光る仕事ばかりじゃなく、見えない仕事をしっかりしてこそ、光る仕事が、さらに光るんだ、つまり仕事に奥行きがなくなったら、日本料理の火が消えてしまう、ということを今、一番心配してるんです。