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 第6回 不屈の牡蠣 後編/宮城県南三陸町 工藤忠清さんが牡蠣を育てる志津川湾にて

浄化施設もスタンバイ。スタートラインに立った

 牡蠣をむいていた作業場のドアの向こうには、立派な水槽があり、中に牡蠣が沈んでいる。
「これは昨日海から揚げた牡蠣。紫外線で滅菌したきれいな海水で浄化して、それから殻をむく。ここにいる牡蠣はみんな、雑菌のない海水で、人工透析を受けてるみたいなもんだ」
 だから、私が7個食べても大丈夫なのだ。

フォークリフト 滅菌海水
 

 奥田シェフが、初めて志津川にやってきた2011年5月18日。津波を受けてもなお生き残った牡蠣をシェフが注文し、料理に使ったことで、みんなのやる気に弾みがついた。その時、最初に海に投じた種牡蠣は、どうなっているのだろう?

パンパカリンの3年牡蛎

 工藤さんがその時の牡蠣を持ってきてくれた。私がむいていたものよりずっと立派。身がパンパカリンに詰まっている。
「さっきのは1個500円だけど、これを失敗したら、1500円の罰金だな(笑)」
 2年の間に、じっくり大きくなっていた。
 同じように奥田シェフも牡蠣をむき始めた。
「ナイフも開け方も、料理人とは違うんだな」
 と呟いていたけれど、さすがプロ。中身を傷つけることなく、さらりと開けた。

 工藤さんたちが加工場を竣工したのは、震災の起きた2011年の年末。被災3県の漁師たちの中で最も早かった。牡蠣ができても加工場がなければ出荷できないが、とくに浄化施設はとても高額で数千万円から1億円はする。その費用捻出がネックになり、復興のスピードを押しとどめている。「南三陸漁業生産組合」も加工場の建物は先にできていたが、高額な牡蠣の浄化施設が完備されたのは、今年3月のことだ。
「これでやっと、スタートラインに立てた」
 国や県から復興予算が下りるのを待っていたのでは間に合わないと、先手先手を打って、養殖の再開と加工場の再建計画を立ててきた。工藤さんは、震災後のイベントで「3年で完全復帰」と言っていたけれど、牡蠣の生産量については、2年で元通り。昨年夏には簡易的な浄化槽を導入して出荷を再開していた。

牡蠣をむくシェフ

 彼らが、こんなに早く再建を果たせたのは、なぜだろう?
「南三陸漁業生産組合のメンバーは30〜40代が中心。その中には、漁協青年部長経験者が7人もいる。人脈が豊富で、県の担当者や漁協本部とのつながりもあるから、情報も入ってくるし、やるとなったら動きは早い」
 震災後、被災した漁港を訪ね歩いた奥田シェフも、「被災して、こんな立派な施設を持っている漁師を見たことがない」と言う。

 三陸沿岸には、他にも大勢被災した漁師がいる。でも、高齢者が多く、もともと個人事業者のため、彼らのように組織化して力を合せて再建するのが、あまり得手ではなかったりもする。時間が経つほど復興に格差が生まれているのも事実だ。全員一緒に立ち直れたら、それに越したことはないけれど、足並みを揃えていたら時間はどんどん経っていく。
 仮に津波が来なかったとしても、そのままでは高齢化が進んで東北の水産業は衰退していた。だから漁業を元通りにするのではなく、震災をきっかけに進化させなければ……工藤さんのこの2年半の歩みから、そんな気概を感じる。

「南三陸だけでなく、三陸全体を引っぱるぞ! リセットだ」
 震災以来、工藤さんから何度か「リセット」という言葉を聞いた。リセット=「何もなかったことにして、0からスタートする」の意だが、実際は何を意味しているのだろう。
 最初の頃は「亡くなった方々には、本当に申し訳ないけれど」と前置きして遠慮がちに。最近は新しい加工場で、牡蠣をむきながら。まるで自分を鼓舞するように、この言葉を発していた。
 津波に襲われ、湾内に過密状態だった養殖いかだが流されたあと、牡蠣を浄化しなくても食べられるほど、海が清浄で栄養豊かになった。これが「第一のリセット」。船も加工場もなくなり、イチから建て直した。これが第二のリセット。そして組織化した漁師たちと、利益が生まれ後継者がちゃんと育つ漁業を展開していく——。
「できれば夏も休まず、1年中牡蠣を出荷したい。それには憲法よりも、宮城県の牡蠣の取り扱い条項を、先に変えてほしいんだけどな(笑)」
「第三のリセット」もまた、始まっているみたいだ。

ギャグが発端。モン・サン・リックプロジェクト

 奥田シェフにとっても、工藤さんとの出会いは大きかった。
「あの震災直後の大混乱の中、工藤さんは、ソウルオブ東北のイベントに駆けつけてくれた。この出会いを、ずっと大切にしていきたい」
 2012年3月のこと。復興に奔走する工藤さんを、奥田シェフはスペインで開催された「マドリード国際グルメ博」へ連れて行った。現地のオイスターバーを見せたかったのだ。
「志津川にも、いつかこんなのを作りましょう!」
 と意気投合。工藤さんの長男の広樹さんが、「僕が店長やるぞ!」と張り切っている。

 話はムール貝に戻る。奥田シェフが、牡蠣にくっついたムール貝を見た時のこと。
「志津川にも、ムール貝があるんだな。こりゃ、フランスのモン・サン・ミッシェル? じゃなくて、モン・サン・リック(三陸)だ!」
 そう言った途端、工藤さんや漁師さんたちが笑った。その笑顔を見て、シェフはこう宣言した。
「私とみなさんで、モン・サン・リックブランドを立ち上げましょう!」
「なんじゃそりゃ? ハハハハ……」
 また笑った。すべてはギャグから始まった。

 奥田シェフは、地中海にあるサンマリノ共和国の「食の平和大使」も務めている。
 サンマリノはイタリア半島中東部にある、世界で5番目に小さな国。この国のワインフェアを、東京スカイツリーにある奥田シェフプロデュースのレストラン「ラ・ソラシド」で開いた時のこと。
「南三陸の志津川の牡蠣にくっついて、ムール貝があるんですよ」と話すと、サンマリノのワイン担当者が、
「ちょうど、ムール貝にぴったりのスプマンテがあるんです」
「おお、それをモン・サン・リックと名付けて、志津川の漁師さんたちを応援しましょう」
 ……ということで、サンマリノ生まれのスプマンテ「モン・サン・リック」が誕生。シェフのギャグに端を発したプロジェクトが、本当に動き始めた。「この収益を志津川の海産物のプロモーションに役立てたい」と奥田シェフは考えている。

カキとカキビネガー モン・サン・リック

 実際に今秋、池袋、横浜、千葉の百貨店で開催された「Cara Italia〜親愛なるイタリア〜」展で、奥田シェフは「リストランテ サンマリネーゼ」を出展。「モン・サン・リックコース」という東北応援メニューがお目見えした。前菜、パスタ、メインディッシュからなるコースの、最初の一皿に登場するのは「カキとカキビネガーのパプリカ」。メインは「ギンザケの43℃蒸し」。志津川の「不屈の牡蠣」や猛スピードで成長するギンザケと一緒に「モン・サン・リック」も味わえる。
 会期中には工藤さんも上京し、自分たちのカキとモン・サン・リックに舌鼓をうった。
「志津川の牡蠣にぴったりの味。一緒に広めていこう!」
 震災がきっかけで生まれた出会いが、ここに結実。漁師と料理人が手を組んで、三陸の海と人を元気にする「モン・サン・リック・プロジェクト」は、今、始まったばかりだ。

 

◎今回訪ねた先は…

工藤忠清(くどう・ただきよ)
1964年生まれ。父の時代から牡蠣、ワカメ、ホヤの養殖に携わる。93年に有限会社大清を設立し、牡蠣養殖と卸売業を開始。94年には宅配便による配送も開始する。2002年ネットショップ「OYSRER PRODUCEしづがわ牡蠣工房」をスタート。11年3月11日、東日本大震災で被災し、船や養殖・加工施設を失う。同年11月、漁師仲間12人と「南三陸漁業生産組合」を結成。専務理事を務める。
南三陸漁業生産組合
TEL/0226-29-6201
FAX/0226-29-6206
※繁忙期につき、「不屈の牡蠣」は「殻つき・一度に30個以上・継続的な注文」にのみ対応している。
「留守の場合は、一度FAXで注文内容と連絡先をお送り下さい。改めてこちらからご連絡します」とのこと。
 
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プロフィール

奥田政行(おくだ・まさゆき)
1969年山形県鶴岡市生まれ。2000年「アル・ケッチァーノ」を開業。地元で栽培される食材の持ち味を引き出す独自のスタイルで人気を博す。「食の都庄内」親善大使、スローフード協会国際本部主催「テッラ・マードレ2006」で、世界の料理人1000人に選出される。07年「イル・ケッチァーノ」、09年銀座に「ヤマガタ サンダンデロ」をオープン。東日本大震災の直後から被災地へ赴き、何度も炊き出しを実施。今も継続して支援に取り組む。12年東京スカイツリーにレストラン「ラ・ソラシド」をオープン。スイスダボス会議において「Japan Night 2012」料理監修を務める。「東北から日本を元気に」すべく、奔走中。
http://www.alchecciano.com
三好かやの(みよし・かやの)
1965年宮城県生まれ。食材の世界を中心に、全国を旅するかーちゃんライター。16年前、農家レストランで修業中の奥田氏にばったり邂逅。以来、ことあるごとに食材と人、気候風土の関係性について教示を受ける。震災後は、東北の食材と生産者を訪ね歩いて執筆活動中。「農耕と園藝」(誠文堂新光社)で、被災地農家の奮闘ぶりをルポ。東北の農家や漁師の「いま」を、「ゆたんぽだぬきのブログ」で配信中。
http://mkayanooo.cocolog-nifty.com/blog