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INTERVIEW

柴田書店MOOK - CAKEing vol.6 「私の修業時代」より

素材への豊かなイメージ

弓田 亨氏(イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ オーナーシェフ)
 
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 お菓子づくりというものは、単に配合と手順を追ってつくる無機的なものではなく、つくり手の精神が深くかかわるものだ。弓田 亨氏という人はそのことをいち早く提言し、菓子職人という仕事のむずかしさとすばらしさをひたすらに示してきたと思う。
 弓田氏のお菓子は、素材の持ち味を際立たせるのが特徴だ。たとえばブラン・マンジエ。アーモンドを牛乳で煮出してつくるシンプルなこのデザートが、心の奥にしみるほどの深い味わいを持っていることにハッとさせられる。弓田氏自らが探してきたスペイン産の良質なアーモンドを使い、そのコクを強化するためにサワークリームを加えるなどの工夫が凝らされており、なんともいえないやさしい舌触りとともに、アーモンドの温かみのある豊かな持ち味が際立って伝わってくる。(中略)
 このようなお菓子が生まれる源は「素材への豊かなイメージ」だと、弓田氏は説明する。この言葉を理解するには、弓田氏がフランス菓子とどう出会い、どう立ち向かったかを追わなければならない。

最初に訪れたフランスの印象は、「もう二度とこんなところに来るもんか」

 弓田氏が菓子職人になったのは、まったくの偶然からだった。大学時代に学生運動で挫折し、就職できずにいた時に働いたアルバイト先が、たまたまケーキ店だったのだ。弓田氏には好きな詩人がいた。リルケである。リルケの詩に登場するパリをみてみたい。菓子の世界に漠然とパリとのつながりを感じたことが、弓田氏の背中を押した。
 スタートは、アルバイト先から紹介された九州の菓子店だった。(中略)
当時から、この生地の砂糖をこのくらい減らすとどうなるかなどと考える気持ちが芽生えていた。が、周りに尋ねても「お菓子は奥が深いんだ」で片づけられてしまう。弓田氏は日々の仕事でつくった生地の切れ端などを食べ、作業の結果を体で覚え込んでいった。
 こんな弓田氏も、最初はデコレーションこそが一番大切な仕事だと信じていたとか! そんな意識を一変させてくれたのは、先輩の「お菓子は食べるためにある。おいしくてこそお菓子なんだよ」というひと言だったという。その後、弓田氏はさらに修業を積み、やがては東京の「ブールミッシュ」の工場長となる。そして菓子職人になって8年めの78年、ついに「ブールミッシュ」の口ききでパリの名店「ジャン・ミエ」で1年間働くことになる。弓田氏は語る。

「ふり返れば、自分の責任で現場をまとめる経験をしてからフランスヘ行ったことは大きかったと思う。単なる実績づくりやレシピを集めに行くのでは意味がない。総合的な知識と技術を身につけるためには、周りにある素材への理解を深めることを含め、日本での仕事を精いっぱいやってからフランスに向かうことが大切だと思う」

 こうしてついに辿り着いたパリ。が、弓田氏の期待は裏切られる。ミルフィーユ、シブーストなど、心からおいしいと思えるお菓子や素材にもめぐり合えたものの、「ジャン・ミエ」のお菓子の半分は、歯触りも香りも味も弓田氏の理解の範疇を超えていた。たとえば、ビュッシュロンというチョコレートケーキ。いまでこそココアとチョコレートの迫力あるおいしさに感嘆するが、当時は日本にはなかったその深い混沌とした香りと、ざらついた生地の食感に不快感すら覚えた。現在では同店のオーナーシェフとなっている親友、ドゥニ・リュツフェル氏の菓子のつくり方をみても驚いた。日本ではよく混ぜてきめの細かい生地をつくるのが常識なのに、ドゥニ氏は粉が多少残っても気にせず、ザラザラ、ゴツゴツした生地ができ上がる。
 また、お互いに依存し合っている日本とは違う個人主義の世界もカルチャーショックだった。弓田氏は異質の世界にもがき苦しむ。
 だから帰国する時はうれしかった。「もう二度とこんなところに来るもんか」という気持ちだったという。が、帰国後も、弓田氏に平安は訪れなかった。今度は、フランスでふつうにできたことが日本ではできないという壁にぶつかるのである。(中略)
 さらに大きな壁があった。帰国後3ヵ月もたつと、無意識のうちにフランスで知ったものとはまったく違うものをつくっている自分がいたのだ。生地ひとつとってもいつの間にか、ただ柔らかく淡い味のものをつくってしまう。周りからはおいしいといわれても、弓田氏は疑心暗鬼に陥った。弓田氏の真骨頂はここからにある。そのまま日本人好みかもしれないお菓子づくりに流れることもできただろう。でも弓田氏は「自分は何かおかしなことをやっている。自分は嘘をついているのではないか」という思いから決して逃げなかった。そしてもう一度フランスに行って確かめなければという思いは募り、最初の渡仏から5年後にふたたび「ジャン・ミエ」へと赴くのである。(中略)

フランス菓子の多様性。そこに自分の表現を見出した

 2度めのフランスは、意外にも温かく弓田氏を迎えた。5年間の試行錯誤のうちに、弓田氏の中でフランスを理解する土壌ができていたのだろう。弓田氏は前回の渡仏の際においしいと思えたお菓子は、確認のために1度だけ食べた。そして当時は不快だと思ったお菓子を何度も口にした。すると当時は違和感が強かったお菓子ほど、力のあるおいしさをともなって心に飛び込んできたのである。ふり返れば前回の渡仏の時は、日本の常識にあてはめてお菓子を味わっていた。その思い込みをとり去ってお菓子に向かった時、さまざまな味、香り、食感が響き合う多様性こそが、フランス菓子の真髄だということを弓田氏は実感する。それは同時にフランス菓子の背景にあるフランスという国の精神性を悟ることでもあった。個性よりも全体の統一感が重視されがちな日本的世界とは違い、フランス的世界はさまざまな個性と感情が混沌としてぶつかり合いながらこだまする。弓田氏は、フランス的世界こそ自分の熱情が求めていたものだと思った。
 食べ手の個性に訴えかける、多様性のあるお菓子をつくることと道は定まったが、そのためにはやはり両国の素材の差をどう埋めるかを模索する日々が必要だった。それは86年、東京・代々木上原に「イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ」を開業してからも続いた。作業の前提になったのは「素材への豊かなイメージ」。弓田氏は渡仏中、素材とお菓子の味を確実に記憶するために、その印象を香りから歯触り、唾液での溶け方、喉ごしまで細かく記録し続けていた。

「すばらしい素材のイメージさえ確かなら、技術はいつかつながる」

 と、弓田氏は語る。たとえばレモン。フランスで出会った上質なレモンは、単なる酸味だけではない豊かな表情を持っていたという。

「レモンをただ酸っぱいとしか感じられない人に、本当のフランス菓子はつくれません。初恋の甘酸っぱさ、酔いどれた翌朝の苦味を含んだ酸味……。素材のさまざまな表情を読みとって、自分の感情と人生を重ねられてこそ心に訴えるお菓子をつくることができる」

 と、続ける。私たち日本人にはフランス菓子をつくる必然性も環境もない。だとすれば、自分の心の中にこのようなフランス的空間をつくることが大事だと力説する。学生時代にふれたバルザックやリルケが、自分に素材をみつめる素地を与えてくれたと、弓田氏はいう。
 自らのイメージを体現するために素材の足りない味わいを補強し、科学的な面を踏まえて技術を研究する、無我夢中の日々。必要以上のデコレーションは「一番簡単な逃げ道」とし、決して自分に許さなかった。そして弓田はやがて、「混ぜる」作業の重要性に気づく。

「お菓子も料理も、いかに素材を混ぜるかに尽きます。たとえば日本の素材はフランスのものに比べて味わいが希薄なので、混ぜすぎると特徴が消えてしまう。目にみえない部分まで混ざり具合をイメージできるように科学的な考えを養うこと、また、そうやってつくったお菓子はかならず口にしてその記憶を積み上げることが大切」

 と語る。(中略)
 弓田氏は自分がここまでこられたのは「しつこさ」だといってはばからない。それはいい換えれば、フランス菓子とは何かを消化せずには進めなかった「誠実さ」なのだろう。